朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

身に纏うものとしての言葉

 

日本語が崩壊しているメールが、立て続けに届いた。

てにをはが明らかにおかしい、主語と述語の関係は行方不明で、尊敬語・謙譲語が入り乱れている。結論も、こちらに何を求めているのかも理解に苦しむような内容だった。

 

私は大学で教授の秘書として働いていて、毎日たくさんのメールをやりとりする。特に面白いのは一般に公開しているアドレスで、ここには外部からの講演依頼やら一般個人の自己満足のファンレター的なものやらとにかく色々なものが届く。

 

その日本語が崩壊していたメールはどこかからの講演依頼で、最初見たときはあんまりにあんまりだったので読みながら思わずにやにやしてしまった。

 

かと思えば、なんでただの自己紹介と講演依頼なのにこんなに惹きつけられるんだろう、というようなメールが届いたこともあった。あいにく日程が合わずお断りすることになったのは本当に残念だった…もっとあの人の日本語に触れていたかった。

 

 

だれもが基本的に同じ字を使っているはずなのにここまで印象に差が出るのは面白い、ほんと。昔はこれに達筆・悪筆といった指標も加わっていたわけだけども、みなが同じように書ける時代が到来したことで一層言葉そのものの遣い方が引き立つようになったのかもしれない。

 

別にそんな難しい言い回しをこねくりまわす必要は無いと思う。無いと思うけれど、最低限「てにをは」「主語・述語」「尊敬語・謙譲語」は正しく運用できていないと、「私はまともな会話ができる人です」というメッセージは発信できない。

 

「やまとことば」だとか「美しい日本語」だとかいうブームにのっかってわーわー言っている人を見ると、言葉を大切にする習慣が無いんだな、と思う。言葉に対する感受性を豊かにして日々を生きていれば、あんな薄っぺらい流行に飛びつこうなどとは思わないはずだ。

 

デジタルの文章はドットのある場所の違いだけで表現されているのに、ここまで手触りや色、流れの速さ、豊かさが異なるのはなんとも不思議な話だ。

 

願わくば、人に何かしらの感情の動きを与えられる文章を書いていたいし、なによりもそんな文章に触れながら生きていたいと思う。