朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

言語と文化

前回の記事にも書きましたが、「ある言語を別の言語に言い換える」という意味での通訳・翻訳は私が生きているうちにAIに代替されるでしょう。

言語学習とは膨大な知識と経験のインプット⇔アウトプットの繰り返しであることを考えると、これはどうにも将来代替されてしまう気がしてならないのです。

 

ただ、それでも人間が対応しなければならない分野は残ります。

自分の日本語が完璧な英語に訳されて相手に届けられる未来が来たとしましょう。そんな未来においても尚人間がしなければならないものはなにか。それは異文化への適応です。

 

"Hi."は「やあ。」ではありません。

道で知り合いにばったり会ったとき、駅の窓口でチケットを買うときに会話の呼び水として使うのが英語の"Hi."です。英語圏に住むと毎日必ず使う言葉です。

一方で「やあ。」はどうでしょうか。正直私はこの言葉をおふざけ以外で使ったことはありません。誰かが使っているのもほとんど見たことはありません。物語の中でしか使われることのない言葉、それが私の「やあ。」に対する認識です。

 

"senior"は「先輩」ではありません。

"senior"は「年上の人」という意味はありますが、だから敬語を使う、だからseniorは目上、といった意味は含みません。

一方で「先輩」は「年上を敬う」という文化の枠組みの中にあって初めて機能する言葉です。先輩は無条件に敬うべき、先輩には必ず敬語を使う。

 

このように、言語は習慣や文化という文脈の中にあって初めて機能するものです。ただ似たような「意味」の言葉に変換すればよいというものではありません。

こうした空気のようなものは、AIがどれだけ発達しても人間が適応していかなければならない部分だと思っています。

 

商談や国際会議の方がかえって通訳の機械化が容易かもしれません。共有している前提がかなりしっかりしていそうですから…

 

ところで、『未来に先回りする思考法』という本において、テクノロジーの本質的な特徴は次の3つに絞られると書かれています。

  1. 人間を拡張するものであること
  2. いずれ人間を教育しはじめること
  3. 掌からはじまり、宇宙へと広がっていくこと

2.についてわかりやすい例は「貨幣」でしょうか。物々交換を容易にするために生まれた「貨幣」は、いつの間にか「便利なツール」から「人間を縛るもの」へと変貌を遂げました。人間は「貨幣」によって教育されたといえます。

 

となると、AIによる「通訳・翻訳」が可能になったとしたら、人間の使う言葉もAIに解釈されやすいように変化していくのかもしれません。あたかもAIに教育されるかのように。

 

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法