朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

生きる

 

 

初夏の京都が、好きだった。

 

 

なにかを懐かしむとき、思い出されるのはいつも、そこにあった自然だ。

 

あのころ、わたしの、わたしたちの世界は、狭かった。
今思えば笑ってしまうほどの、狭さだった。
下宿と大学、否、下宿と練習場の行き来で世界は完結していた。

 

その狭い狭い世界の中で、ときには鼻息荒く、ときには苦しみながらよくわからないものと戦っていた。
なぜ、たかが部活に、と今となっては思うけれども、当時のあの狭い世界の中ではそれがすべてだった。
(実のところ「部活」と言われることすら嫌だった。「部活」呼ばわりしないでくれ、わたしたちは本気なんだ、と)

 

 

この夏もきっと、いくばくかの若者が、「京大オケ」の名のもとに、もう二度と来ない夏を過ごすのだろう。

 

私にとっての過去は、誰かにとっての未来だったりする。
人生だなあ、と思う。

 

 

 

 

 

 

初夏の京都は、美しかった。

 

 

初夏は、私の一番好きな季節だ。
毎年、桜が散ったあとは初夏の到来を首を長くして待っていた。
鮮やかな緑。瑞々しい葉の質感。優しげな木漏れ日。
なんの用事もないのに、鴨川沿いをただただ自転車で走った。

 

信号待ちをするごとにじりじりと着実に焼いてくる容赦ない夏の日差し、凍死のつらさに思いを馳せずにはいられない冬の底冷え。初夏のほんの数週間には、それらを補ってあまりあるだけの美しさが、あった。

 

 

 

5歳まで住んだ長田の桜。小学校の6年間、四季のうつろいを感じ続けた登下校のあぜ道。玄関にできたツバメの巣。夏の早朝のヒグラシ。秋の夕闇の虫の声。冬の乾いた空気の響き。セーラー服の紺と桜。

 

京都で鍋の買い出しの帰りにみんなで見上げた月。早く着いちゃったな…と玄関先で待ったときの夕焼けの色。夏にセミの鳴き散らす中練習したときの顎当ての汗。ボロ屋に寒風吹きすさびすぎて全く練習にならなかった冬。徹夜の回生総会で初めて口にしたレッドブル(もっとも辛い思い出のひとつ)。授業をさぼって見に行ったツツジ平等院の鮮やかな藤の花。

 

 

全部、全部おぼえてる。

 

 

 

 

すべては、あっけなく終わってしまう。気づけばすべてが過去になっている。
これからもずっと続くと錯覚していたものが、気づけばもう訪れないものになっている。

 

だからわたしは、今を、この瞬間を、大事にしようと思う。
この瞬間を、生きよう。
それは別になにかを精一杯頑張るとかではなくて、今この瞬間にしかないものを大切に愛でることだと思う。

 

あじさいが日々花開いていくさま。ツバメの巣作り。今朝見たばかりのバジルの芽が夜にはまた成長しているさま。旦那の寝言。今日の料理のあじつけ。一緒に働いているひとたちの表情。

 

わたしたちはうっかり忘れてしまいがちだけども、時は止まらない。
すべては過ぎ去っていく。
すべては、過去だ。

 

きれいごとでもなんでもなく、すべては一期一会で、芽生えたバジルの種は、もう元に戻ることは無い。

 

 

 

 

 

初夏の京都が、好きだった。

 

 

今は、東京のあじさいの色も、好きだ。
そう遠くない将来、今この瞬間を懐かしく思い出す日も来るのだろうなと思いながら。