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朝からスコーン

語学と読書が好き。好奇心は無限。WEB系めざしてプログラミングはじめました。

結婚して1年が経ちました。

結婚観/家族観

 

2017年、もう3月!しかも下旬!

 

もう今年も4分の1が終わりか~~~~はやいはやい

 

 

はい、そんなこんなで結婚してから1年経ちました。

ハヤイモンダネ。

 

 

後年見返したときに面白いんじゃないかな~という期待を胸に以下ぽちぽち書いてみる。

 

さー、新婚1年目を振り返ります。

 

 

 

意外と普通

 

いや、ね、 両家顔合わせとか引っ越しとか入籍とか転職(私)とか結婚式とか新婚旅行とかイベント盛りだくさんだったのに言うのも変な話なんですけどね、意外と普通

 

何が普通かっていうと、うーん…

 

2015年1月「まだ学生です。卒論出しました。」←うんうん

2016年1月「転職して関西帰ってきました」←そうかそうか

2017年1月「結婚して関西で暮らしてます」←そうかそうか

 

 

と軽く流せる程度には普通です。

 

 

やーね、前述のとおりのイベントまみれで出費もえらいこっちゃでしたからね、全然普通の1年じゃなかったんですけど、まあ良い意味で今の状況が日常として馴染んだのかなあ、というところです。

 

いやあしかし、この「普通」というものがどれだけ有難く、幸せなものであるのかを日々かみしめてもいます。

 

 

頭痛がひどいときには「頭痛くなかったころってめちゃくちゃ幸せやったんやな…」、鼻炎がひどいときには「鼻が普通に機能してたころってめちゃくちゃ幸せやったんやな…」と思い、それと同時に今ここにある「普通」を大事にしよう、いや、ほんとに大事にしよう、と決意を新たにします。

 

 

 

 

 

一人なら習慣、二人なら文化

 

この1年で変わったこともたくさんあります。

 

そりゃ、生まれも育ちも違う人間が二人、一つ屋根の下で過ごすのですから、当然お互いどこかしら 習慣を変形させていくことになるわけです(ちょうどスライムのように)。

 

「一人なら習慣、二人なら文化」って私が思いついたのかどこかで聞きかじったのか定かではないのですが、もし私が思いついた言葉なのならけっこうやるやん私。←

 

これ、本当にそうだと思うんです。この1年でしみじみそう思いました。

 

この1年で私はガスの元栓を閉めるようになって、カレーとかを一晩置いておくときに蓋をするようになって、牛乳は3日以内に飲み切るようになりました。

 

ほかにも小さな変更を(自分でも気づかないうちに)たくさん加えてきました。

 

そして夫もたくさんの変更を重ねてくれましたし、重ねてくれたんだと思います。

 

 

これは別に「合わせよう」と意識するものではなくて、「互いにとってより快適な生活を創るための小さな一歩」という表現がしっくりくる気がします。

 

 

人と関わる、というのはやっぱりすごく面白いことで、家で、仕事で、趣味で人と関わるたびに本当にいろーんなことを考えます。

 

大学生のときは固定されたメンバーと四六時中顔を合わせるという環境だったのが、今はずっと多様な人間交流となっています。考えることもずいぶん変わった気がします。私という人格の根っこはずっと同じではありますが。

 

とまあ、人との関わりを考えるという点でも、結婚というのは非常に興味深いです。

 

日々を生きている自分と、それを一歩引いたところから眺めながら観察している自分。面白いです。

 

 

 

「パパッと適当に作る」ができるようになった

 

私の方が就業時間が短いこともあって、ごはんは基本的に私が作っています。

 

いやーーーーほんとに上達しました。

あわあわしなくなった。

料理してるときの頭の中がかなりすっきりした。

 

朝ごはんを週6日、夜ご飯を週5日作っているとすると、この1年で11×52= 572回(!!)も料理していることになるわけです。

 

そら上達もするわw

 

自分の中で型が確立しつつあって、基本的な料理なら初見レシピでもスムーズに作れるようになりました。

 

上達、うれしいな~

 

 

 

 

味覚が変わった

 

どーでもいいんですけど、私、大学入ったときは今より12kg太っていました。

 

ジャンクフードと外食ばっかりで、18年間けっこうひどい食生活を送っていました。

 

料理らしい料理がほとんど出てこない家庭で育ったので、お腹すいたらとりあえずインスタント、みたいな。

 

当然いわゆる家庭料理(卵とじとか煮物とか煮びたしとか魚の煮付けとか)はもうほとんど食べたことなくて、味のイメージもよくわからなかった。

 

インスタントと外食で育ったから、味濃いめカロリー多めLOVEの舌でした。

 

 

一方夫は対照的に野菜多め味薄めカロリー低め家庭料理育ちのようで、この1年夫の舌に合いそうな献立を模索するうちに、自分自身もかなーり夫寄りの味覚になりました。ほんと。

 

昔は肉も炭水化物もいくらでもカモン!って感じだったんですけど、今の私は割とすぐにおなかいっぱいになりますし、3食とも炭水化物を食べると若干気分が悪くなります。

 

献立も最初は肉中心で考えていたのが、今は野菜中心に考えるようになっていて、あ~~進歩したな~~いえーい~という感じ。

 

一緒にいる人の影響というのは思っていた以上に大きいんですな。

 

 

 

 

 

毎日楽しい

 

まあよーするにこれです。

 

毎日楽しい。

 

なんなんだろ。ほんとに楽しい。

 

そりゃ、しょーもないことで1日1回くらいはプリプリ怒ったりはするんですが、それでも朝晩で1回ずつくらいは「あっはっは!」って笑ってる気がする。

 

学生時代も「仲良いよなー」とか勝手に思ってましたが、この1年でまた一段と仲良くなりました。

 

「気心の知れた仲間」が夫、というのは本当に素晴らしいことです。

 

 

 

去年もたいがいイベント尽くしの1年でしたが、これからの1年はそれ以上の大 転 換になる予定です…!!

 

 

またそれについてもぽちぽち書きますんで。

 

 

 

 

 

いやーほんと、いつもみなさんありがとうございます。

 

これからも、夫婦ともども末永くよろしくお願いいたします~~

 

 

 

 

 

人類みな自分大好き

 

『こうすれば必ず人は動く』というかのD.カーネギーの名著があると聞き及び、ちょうど今月から始めたkindle unlimitedの対象(=無料)だったので、通勤がてら読んでみた。

 

amazonレビューは4.5。

カーネギーの教えを立体的に学びたい人にはお勧め。」

「殺伐とした現代にこそ、多くの人に読んでもらいたい。」

 

 

なんて書いてあるものだから、どれだけありがたい言葉が並んでいるのかと思ったら。

 

なんのことはない。

 

 

「人類みな自分大好き」

 

要するにそういう話である。

 

 

 

 

 

人間はあまねく自分にしか興味がない。

 

自分の何に役立つのか。

自分に何をもたらしてくれるのか。

自分のどんな問題を解決してくれるのか。

 

興味があるのは、そこだけ。

 

 

 

 

認めてもらいたい。

褒めてもらいたい。

感謝されたい。

信頼されたい。

何かを達成したい。……

 

人間は誰しもそうした願望を抱いている。

 

 

相手のそうした願望を率先してかなえていこう、そうすれば円滑な(=回り回って自分にとっても有益な)人間関係を築けますよ。

 

これこそが、本書において通奏低音的に流れる基本理念である。

 

 

 

……と、知った風な顔で書いてみたけども、実際学ばせていただくことは本当に多くて、とりあえず今日一番刺さったのは「自分が正しいことを証明したい、という欲求にかられるのが人間の常だが、それを相手に証明したところで相手にとってはなんの利益にもならない」っちゅー話でした。あちゃーー、耳が痛い笑

 

 

読書ってのはほんと、読むごとに新しい視点を与えてくれるから楽しいもんです。

 

 

 

 

勝負することがこわい

 

 

受験生の弟が、2年(3年?)連続で第一志望の大学の入試をすっぽかす、という出来事があった。

 

(もう1年前のことだけど)

 

彼はその後、併願していた大学に2浪の末入った。

 

 

 

すっぽかそう、と決めたときに彼がなにをかんがえていたのかは想像することしかできないけれど、もし「勝負することを恐れて、逃げた」のであれば、その気持ちはなんとなくわかる気はする。

 

 

 

 

正しくあらねばならない

 

両親の教育ゆえか環境ゆえか、われら3姉弟は「こうあらねばならない」「正しくあらねばならない」という一種の強迫観念のようなものが人よりも強い気がする。

 

 

たとえば妹は、昔ピアノのレッスンに通っていたときに練習不足だからと連絡もなくレッスンを欠席した。

 

たとえばわたしは、昔イギリスの高校に留学するための英語の試験を受けることになったとき、「準備不足だ、実力不足だ、ああ無理だ、落ちたくない…」とこわくなって前日にドタキャンした。

 

 

まあ非常識と言ってしまえばそれまでなんだけれども、なぜそういう行動をとるに至ってしまったかが肝心だ。

 

 

「やるからにはできなければいけない」「正しくあらねばならない」

 

なんかほんとこれに追われてた。

 

 

レッスンに行くからには先週より上達していなければならない。きちんと練習しておかねばならない。

 

お金を払って受験するのなら、合格せねばならない。十分に準備せねばならない。

 

 

 

この考え方は他人にも向けられていて、「あの人ブスなのによくあんな格好できるなあ」「全然練習してないくせによくそんな偉そうなこと言えるなあ」「役員に立候補するならまず校則守れよ…」とかそんなことばかり思っていた。

 

 

でもこの考え方ってほんとにしんどくて、他人に勝手に課した「こうあらねばならない」は何倍にもなって自分にのしかかってくる。

 

 

 

おしゃれするならかわいくなければならない。

 

アドバイスするならめちゃくちゃうまくなければならない。

 

1回引き受けたならば、間違いなく完璧にこなさなければならない。

 

 

これって心のメーターの針がプラスに振れているときは強力な着火剤になってくれるんだけれども、いったん針がマイナスに振れてしまうと、ガチガチにしばられて身動きがとれなくなってしまう

 

 

 

 

「勝」「負」

 

わたしは勝負っていう、「勝」と「負」にすっぱりわかれるものがどうにも苦手だ。

 

 

夫が「卓球部時代の試合楽しかったでー」と言っているのを聞いて、素直に尊敬してしまった。

 

まあ小中高大とずっと文化部で勝敗と縁の無い生活をしてきたから、慣れの問題もあるっちゃあるのかもしれない。

 

 

いずれにせよ、わたしにとって勝負の「負」はお前はだめなやつだ、劣っている、と突きつけられるに等しくて、「正しくあらねばならない」否、「常に正しくありたい」身にとっては耐えがたい。

 

 

 

 

耐えられないもの

  

ずっとずっとずっと入りたくて、念願かなって入団できた京大オケは、入って3年で嫌気がさした。そして逃げるようにビオラに転向、留学した。

 

 

 

これって、今ならわかるけど、「下手な自分」に耐えられなかったんだ。

 

 

うまい後輩がたくさん入ってきて、同期たちもどんどんうまくなっていって、自分の指が回るようになるよりも先に耳が良くなってしまって 、弾けば弾くほど、聴けば聴くほど「自分は下手くそだ」という現実に絶望する羽目になった。

 

 

1日7時間、8時間、ただただ「もっとうまくなりたい」という思いだけで練習し続けていた1回生のわたしは、すっかり過去の思い出になってしまった。

 

 

3回生で経験した2度の定期演奏会は、ほんっとーーーに弾きたくなくて、自主練習もほとんどしないまま、演奏会が終わる日を指折り数えてた。

 

 

もう下手な自分と向き合うのは嫌だ、と。 

 

 

 

 

 壁

 

今思えば、あれがいわゆるスランプ、「壁にぶちあたった」というやつだったんだろうね。

 

「焦らず初心にかえって基礎練しようよ」「短く切って何十回も練習したら少なくとも指は回るようになるよ」と、今の私は振り返っておもうんだけど、まあ、なんというか、プライドが高かったんだなあ…

 

 

自分なんてそんな大したもんじゃないだよ~

 

 

  

あの「スランプ」こそががんばり時だったのだろうな。

 

あそこでひとふんばり、それまで以上に練習していれば、もうひとつ上のレベルに達して卒団できていたんだろうな、としみじみ思う。

 

これは学生時代に残してきた、数少ない後悔のひとつ。

 

 

 

 

 

 

 

 

もしこれからまたなにかに熱中して、そしてその上達の過程でおなじような局面に達したら、今度こそはふんばってがんがん壁にぶつかっていこう、勝負していこう、という小さな決意。

 

 

 

 

 

新しいこと好き

 

なにか新しいことを始めると、たくさんの刺激を受けます。

 

スコーンは、この1年だけでもたくさんの新しいことを始めました。

 

通訳学校、結婚生活、新居生活、新しい職場、レシピ開拓、プログラミング、ブログ、英語雑誌購読、kindle、市民オケ………などなど。

 

 

ポケモンGOリリース時に全速力で飛びついて、でも1週間であきたときにわかったのですが、自分、とてもあきっぽい。

 

 

でもなんかそれでいいとおもうんですよね。

 

自分の感覚としては、とにかくいろんなものに飛びついて弾数うってりゃ、そのうち熱中できるものにであえるんじゃないかなーって。

 

 

はじめたからには続けなければ!!なんてのはしんどいもんね。

 

 

実際、バイオリンとか英語とか料理とかは、長続きしています。

 

 

 

 

 

 

こないだこんなツイートを目にして、「あーなる」とおもいました。

 

 

 

「新しい技術が身についてる感を確実に感じられる」って、あーそれはあるなあ。

 

 

完全な初心者ってかなりしんどいんですが、そんな中だからこそ、ちいさなちいさな一歩でとても幸せになれる。

 

 

そしてこの一歩はいまの上達だけではなくて、自分がこれまでそれなりにがんばってきたものも肯定してくれる。

 

 

「あーーー、そういえばバイオリンも、最初はこんなになんにもわからんかったんよなあ。そんなとこからここまでようがんばったわー」って。

 

 

 

 

でもまだ25才。

 

過去のがんばりに満足するにはあまりに人生のペーペーであるわけでありまして、目下「バイオリン・英語」のスコーン内二大巨頭をがつーんと超えられるものを模索中……

 

 

2016年は存分にふらふらした年だったし、2017年は方向性を定めて地道に足元を固めていきたいなあ。

 

 

かっこいいプレゼン!

昨日は思いがけず予定のない有休日となってしまいまして、せっかくなのでSansan Innovation Projectというイベントに行ってきました。

 

jp.sansan.com

 

法人向けフォーラムだったんですが、しれっと職場(大学)の名前を書いて入れました。わーい。

 

こういうイベントに行くのははじめて。

スーツの人たちに囲まれながら、業界(?)をリードする方たちの講演を聞いてきました!

 

 

話の内容はもちろんなんですが、初めて目にする対大勢の本格的なプレゼン。

これが本当におもしろかった!

 

 

そして聴衆のみなさん、遠慮なくスライドをスマホで撮ってました笑 

むっちゃカシャカシャいってた笑笑

 

 

特にトリの石川善樹さんのプレゼンがほんっとーーによくて、びっくりしました。

もう、むちゃくちゃ楽しそうなんですよね。

 

「これ、めちゃくちゃ面白い話なんですけどね、」って自己紹介もそっちのけで、いきなり本題に引き込む。

 

声が大きくて張りがあって会場を抱擁する力があったので、聴衆も遠慮なく笑ったり写真を撮ったり(=音を立てられる)できて、すごく一体感のあるプレゼンだった。

 

引き込み方も半端じゃなくて、「でね、これが面白いんですけどね…」って絶妙な間を持たせることで、早く次を話してほしい!って聴衆を巻き込んじゃう。

 

何よりこの研究が好きで好きでたまらない!!っていう思いがもうあふれかえっていて、信じられないくらいあっという間で楽しすぎた40分間でした。

 

 

あんまりこんなこと思わないんですが、「わあ、こんな人になりたい…!」って思える方でした。

あんなプレゼンできるようになったらどんだけ楽しいんだろう。

 

最後にしっかり自著の宣伝もされていたので(そこでまたうまいこと笑いを取ってた、すごい)、まずは本を拝読してみます。

 

 

いやー、とても楽しい時間でした。

 

 

 

 

2017年頭に読んでよかった本。

読書/映画

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」

 

この問いに対する答えは、

 

「なぜならより多くの人がそう信じていた方が個々人にとって都合がいいから」

 

だな、といつだか思ったことがあった。

 

 

 

 

 

わたしたちは、多くのものを当然のように信じて(ほとんど疑うことも知らず)生きている。

 

お金、国、会社、宗教、思想………

 

これらはすべて、多くの人が信じているからこそ成立している。

 

 

 

 

「虚構」を可能にする言語

 

人類がここまでの発展を遂げてきた要因はなんなのだろうか?

 

『サピエンス全史』(河出書房新社)によると、それは「虚構」を語れる言語能力らしい。

 

私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。(太字引用者、以下同様)

 

他の生物が到底成しえない、数千万人、数億人から成る一大集団を築けたのも、この虚構の力故だそうだ。

 

1対1の集合体であるたとえば100名程度のコミュニティとは違い、虚構には包摂し得る規模に限界が無い。虚構の力によって、非常に多数の見知らぬ人同士が協力できるようになった。

 

多くの人間が信じれば信じるだけ、それは拡大していく。

それは「中国」「アメリカ」といった「国家」かも知れないし、「キリスト教」「イスラム教」といった「宗教」かもしれない。

 

 

私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。

 

この文章を読んだとき、私のうっすら考えていたことがあまりに的確に言い表されていたので驚いた。

 

すなわち、「人を殺してはいけないのは、多くの人がそう信じていた方が都合がいいから」

 

キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか?まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。社会を維持している秩序は、偉大な神々あるは自然の法則によって生み出された客観的実態であると、つねに主張する。

 

ぱっと思い浮かぶものだと、かの悪名高いナチスがある。

「アーリア人が至高の人種」という秩序を支えるべく、当時の学者たちはこぞって「客観的な」根拠を提示し、一大国家を確立していた。

 

そこまで過激ではなくでも、というかむしろこうした秩序は現代でもありとあらゆるところに存在している。

 

たとえば、「平等」。人種差別反対、宗教差別反対、人類はみな平等である。

現代人の多くは、みなそう信じている。

 

しかしそれと同様に、中世ヨーロッパの人々は階級区分というものを信じていたから、貴族の若者は農民の仕事着など絶対に着なかった。

そして当時の偉いひとたちは、そうした区分にもっともらしい理屈をつけていたのだろう。

 

 

 

結局「客観的な事実」も、「正しい秩序」も存在しない。

それぞれの時代、それぞれの地域に異なる秩序が存在し、その秩序を支える論理が存在する。それだけの話である。

 

 

こうした考え方のもと昨今のアメリカに端を発する騒ぎを見てみると、「トランプ反対!」だけではなく、より立体的な感覚でニュースを見聞きできる。

 

そう、「平等主義者の私たち」も、数多ある秩序の一つに過ぎない。

(もちろん私はこちら側の人間だが)

 

 

 

 

 

無知の知

 

なぜ大航海時代の主人公は明帝国や中東・インド地域の大帝国ではなくヨーロッパの西の果ての国々だったのだろう?

 

東方の歴史好きの人なら、一度は抱いたことのある疑問だと思う。

 

 

なぜならば、そうした国々の人々は「自分たちはもう世界のすべてを知っている」と思っていたからだ。

 

明の皇帝、すなわち天子は、地上を統べる役割を天から与えられた存在だった。すなわち彼はすでに地上のすべてを把握している。そういうことになっていた。

 

イスラム教やキリスト教仏教儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。 

 

当時の領土拡張は辺境地域の延長であり、すでにすべてを知っている(とされる)皇帝が、未知の大陸を求めて船団を派遣することはあり得なかった。

 

古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。(中略)

第二に、伝統全体が重要でない事柄について無知な場合。

前者は、無知な悩める農民が人間の起源について知りたければ、地元の聖職者がすべて教えてくれた。

 

後者は、たとえばクモがどうやって巣を張るかを聖職者に尋ねてももちろん答えは得られないが、聖書に書かれていないということはすなわち神が重視していないということであり、それについて頭を悩ます必要は無い。

 

 

 

 

では、なぜ西ヨーロッパ諸国だけが大航海時代を迎えたのか。

 

 

それを可能にしたのは、近代科学の誕生である。

 

近代科学は、最も重要な疑問に関して集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統だ。

ダーウィンは、自分が「最後の生物学者」で、生命の謎をすべてすっきりと解決したなどとは、けっして主張しなかった。広範な化学研究を何世紀も重ねてきたにも関わらず、生物学者は脳がどのようにして意識を生み出すかを依然として説明できないことを認めている。 

 

 未知の大陸が存在する。

 

西ヨーロッパの一部の人々はその「事実」を受け止め、次々と船団を派遣していった。

 

 

そのあとの経緯は、みなさまご存知のとおり。

 

 

 

 

 

「想像上のヒエラルキーと差別」

 

最後に、奴隷貿易とその後の人種差別についての話が非常に興味深かったので書いてみる。

 

16世紀から18世紀にかけて、何百万人ものアフリカ人がアメリカ大陸に連れていかれ、鉱山やプランテーションで働かされた。

 

しかし、なぜヨーロッパ人でもなく、アジア人でもなく、アフリカ人が奴隷にされたのだろうか?

 

第一に、アフリカのほうが近かったので、たとえばヴェトナムからよりもセネガルからのほうが奴隷が安く輸入できた。

第二に、アフリカではすでに奴隷貿易(主に中東向けの奴隷輸出)がよく発達していたのに対して、ヨーロッパでは奴隷は非常に珍しかった。

そしてこれがいちばん重要なのだが、第三に、ヴァージニアやハイチ、ブラジルといった場所にあるアメリカのプランテーションでは、マラリアや黄熱病が蔓延していた。これらはもともとアフリカの病気であり、アフリカ人は幾世代も経るうちに、完全ではないがそれに対する遺伝的免疫を獲得していたが、ヨーロッパ人はまったく無防備で、続々と命を落とした。そのため、プランテーション所有者にとっては、ヨーロッパ人の奴隷や年季奉公人よりもアフリカ人奴隷に投資するほうが賢明だった。

 

だが、「経済的に好都合だから特定の人種あるいは生まれつきの人々を奴隷にしている」など、公に言えることではなかった。

南北アメリカに移住したヨーロッパ人たちは、経済的に成功しており、敬虔で、公正で、客観的だと見られたがった。

そうして、この身分差別を正当化するために、宗教的神話や科学的神話が無理やり動員されることになったそうだ。 

 

 

19世紀前半に、奴隷制は非合法化された。

 

しかし恐ろしいのはこのあとの話で、非合法化されたのちも社会的境遇の違いから大きな格差が残ったままとなり、今度はその格差によって彼らは一層差別されることになった。

奴隷制はずっと前に廃止され、彼らを縛るものはもうなにも無いのに、まだ貧乏なままじゃないか!」と。

 

たとえ法的に縛るものがなかったとしても、数世代続いた貧困、そして白人からの圧倒的な差別は、そう簡単に克服できるものではなかった。

 

そうしたハナからあまりにも不利な「事実」を元に差別の神話が形成され、それが一層の差別につながるという悪循環に陥った。

 

 

このような悪循環は、何百年も何千年も続いて、偶然の歴史上の出来事に端を発する想像上のヒエラルキーを永続させうる。不正な差別は時が流れるうちに、改善されるどころか強化することが多い。お金はお金のある人の所に行き、貧困は貧困を招く。教育が教育を呼び、無知は無知を誘う。いったん歴史の犠牲になった人々は、再び犠牲にされやすい。逆に、歴史に優遇された人々は、再び優遇されやすい。

 

 

 

 

『サピエンス全史』

 

2017年にこの本に出会えてよかった。

まず第一の感想はこれだった。

 

歴史の渦中にいる人間にはその潮流はさっぱりわからないのが常だけれども、少なくとも2016年は非常に大きな転換点のひとつになったんじゃなかろうか、という気がしている。

 

そんな時代に生きる身として、できるだけ立体的な、壁の無い視点を持ちたいなと思う。

 

本書は、間違いなくそうした視点を与えてくれる体験だった。

 

全然うまく書けなくて、実際の本はこの1000倍は面白いので、ぜひお読みください。

 

2017年に読みたい本、でした。

 

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

  

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

成長の楽しみ

英語/通訳/国際

 

毎週土曜は通訳学校。

 

前半2時間、後半2時間、計4時間。

 

前半と後半は別々の先生が受け持つんだけど、今日は二人ともに同じことを言われてしまった。

 

それに関してふと思ったことがあるので書いてみる。

 

 

 

全然英語が喋れなくて悔しくて仕方なかったあのころ

 

きれいな日本語にできてますけど、もう少しスムーズに訳せるといいですね。

今のだと少し間が気になります。」

 

 

それが今日2回も受けてしまったフィードバック。

 

文法、言い回し、整合性。

全部めちゃくちゃ気をつけて、気をつけすぎてスムーズにアウトプットできない。

 

 

なんかこんなこと、昔もあったなあ、と思ったらそうだ、英語が全然喋れなかったときの感覚だ。

 

 

今でこそ簡単なことなら困難無く話せるけど、昔は「えっと…主語は I で…過去形単数だから was で…進行形にしたいから ing で…それで目的語は…あ、前置詞は何がいいんだっけ………」とか毎回全力で脳内検索をかけながらしゃべってた。

 

そんだけ必死なのに "you likes" とか "teached"とか飛び出てくるし、数か月イギリスにいても一向に喋れるようにならないし、本当に毎日もどかしかった。すらーっとしゃべれないのが悔しくて仕方なかった。

 

 

でもイギリス留学を終えてヨーロッパを旅していて、ふと気づくと「あれ?私英語喋れるやん???」ってなってた。

 

ある日いきなり、ではなく、気づけばできるようになってた、っちゅー感覚。

 

 

 

 

成長してきた、という実感

 

帰国後にも外国人旅行客としゃべったり、スカイプ英会話で鍛えたりして相当伸びた。

 

この1年、通訳学校に通うことでもずいぶん伸びた。

 

なんかこうして、「1年前の自分が見たら羨ましくなるだろうな」と思える自分でいられることは、けっこう嬉しい。

 

1年後の私も、今の私が羨ましく思えるような人間であってほしいなと思う。

 

 

 

 

受験勉強、バイオリン、英語。

 

私はこの3つで、「がんばって、その分成長できた」という成功体験を得てきた。

 

ちょっと集中してがんばったからって、来週からいきなり上達してるとかそんな都合の良いことは全くない。

 

でもなにか「あ、これ前より上手になってる」って思えたときは、それは必ず過去の自分の頑張りによるもの。過去の自分が費やした時間と工夫と気力によるもの。

 

この感覚が、なんていうのかな、本当に幸せ。

 

 

必ず報われるなんてことはない。

でも、なにか今この時に積み重ねなきゃ、より良い未来はやって来ない。

 

 

「あ、今は投資のフェーズだな」とか、

「あ、ちょっと成長したな」とか、

そういった感覚の引き出しが自分の中にあるのがありがたい。

 

これこそが私の中の最大の財産かも。

 

 

 

これからもいろんなことができるようになりたいな~