磁石と砂鉄のようなものかもしれない、と思った。
ここ数か月、いまだかつて無いほどに、日本語と向き合っている。
通訳の勉強とは、英語以上に、日本語と向き合う過程だなと気づかされつつある。
英語は、どちらかといえば外から入れる作業。こんな言い回し、こんな単語、こんな表現。
でも日本語だと、それはすでに自分の中にあるものと向き合う作業になる。
25年の人生を経て、「まあわかるっしょ」と(勝手に)思うようになった日本語を、改めてありとあらゆる角度から解体してみる作業。
主語は?目的語は?前文との関係は?なにを暗喩している?つまるところメッセージはなに?
日本語を分析し、解体して初めて、聴き手に伝わる英語を編み出せる。
日本語と、向き合う作業。
自分の中と、わかっている気になっていたものと、向き合う作業。
言葉には、自分の「中へ向けて」のものと、「外へ向けて」のものがあるらしい。
日々を生きるなかで聞く「言葉」という単語は、基本的に「外へ向けて」のものを指す。
つまり、音や文字を媒介することによって誰かに伝えられるものだ。
しかし考えてみてほしい。
今こうして文章を読むなかで、あなたは心の中で「うんうん」と納得したり、「それは違うだろう」と異議を唱えたりはしていないだろうか。
それこそが、「中へ向けて」の言葉である。
媒介されない、伝えられない、言葉。
「外へ向けて」の言葉は、基本的に「中へ向けて」の言葉に立脚するそうだ。
「中へ向けて」の言葉をどれだけ豊かに持てているか、そしてそれを文字や音声といった媒体に落とし込む力がどの程度あるか、それが「外へ向けて」の言葉の質を左右するらしい。
なんだ、私のこの脳内での大量の独り言もあながち無駄では無かったんだな、とほっとした。
砂鉄の海に磁石を突っ込んで、引き上げてみる。
さて、磁石にはどれだけの砂鉄がひっついているのだろう。
人は、磁石。
砂鉄は、感情であり、気づきであり、知識であり、技術であり、記憶であり、まあ、つまるところなんでもだ。
同じ状況に在っても、同じ音楽を聴いても、同じ文章を読んでも、磁石によって引き寄せる砂鉄は違う。人によって、違う。
でもなんとなく、いろんな形の、いろんな種類の、たくさんの砂鉄を引き寄せられる人は、ちょっと、素敵な気がする。
こんなことを思ったのは、今朝ある本を読んだからだ。
『本日はお日柄もよく』。
スピーチライターの、いや、言葉の、おはなし。
昨日数年振りに出会った友人が薦めてくれた本が、期せずしてこの一年の私に句点を、「。」を、打ってくれた。
ああ、そういえば今年は、言葉と向き合ってきたんだったな、って。
結婚という新たに始まった共同生活で、新しい職場で、ブログで、そしてなによりも通訳の勉強をするなかで、2016年の私はいまだかつて無いほどに、自分の「中へ向けて」の言葉、「外へ向けて」の言葉と向き合ってきた。
「素敵だな」と思うものはいつも、たくさんの砂鉄を引き寄せられる磁石だった。そんな人が編む言葉だった。
『本日はお日柄もよく』を読んで初めて、自分の中のこの感情が形を持った気がする。
あたりまえのように使っている言葉、その言葉にこれだけの注意を、敬意を払える人はなんて素敵なんだろう、と。
奇しくも、25歳の誕生日プレゼントとなったこの小説。
幸運な出会いをもたらしてくれた友人へ。
ありがとう。