朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

常に批評される側でありたい

 

一次的、二次的

 

批評家であるのは、非常に容易なことである。

 

「馬鹿げた話だ」「私もそう思うな~」「なにいっちゃってんのこの人」「この人めっちゃ面白い」「くそわろたwww」「うーん、でもどうかなあ」「こんなこと言う人もいるのね~」「頭おかしいwww」「ほんとにやる気?まあがんばって~」

こんなこと、たいして考えなくたって、誰にでも言える。

 

パーソナルコンピュータの父、アラン・ケイはこう言った。

未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ

 未来を創るのは、二次的な意見しか口にしない批評家ではない。心を、自分の頭で考えたことを貫いて一次的な意見を提示し続ける人々だけが、未来を創るのである。

別に私は大それた発明をするつもりはない。ただ、自分の人生に関しては、自分の手で未来を創り続けたいと思っている。それは世間の常識から外れるのではないか。それは一般的ではない、普通ではない。それがどうした。二次的な意見を言う人はどうせものの数分後には私のことなど忘れている。

結局、周囲の声なぞに従ったところで彼らはその選択に対する責任をとる気など全くない。「よし、彼/彼女は私のアドバイスを聞いたぞ」「私に屈服したぞ」そう満足して終わりである。

 

 

表現するということ

 

表現という言葉は面白い。「表す」に「現す」を重ねている。徹底して、露(あらわ)にするということである。

そういう意味で、表現するということは極めて一次的な行為である。文章、詩、絵画、音楽……自分の心を考えを外へ向かって露にするのである。英語でもこう言うではないか。ex(外へ)press(押し出す)。

いったん外へ出てしまったものは、もう手の加えようがない。表現者の意図が正しく捉えられることのほうが少ないかもしれない。二次的な意見というのは、極めてお手軽に、身勝手に量産されるものだ。それは好悪の感情を問わず。

私たちは、(少なくとも私は、)日常の大半を二次的な観点に立って過ごしている。電車が遅れたら文句を言って終わりである。どうすれば電車を遅らせない仕組みを創れるだろうか?本気でそう考える人はまあそういない。

 

そういうわけで、表現をする人(一次的行為者)は、一旦別カテゴリに入れられる。そしてじんわり吟味される。私の周りの人は、この表現者に賛同するだろうか。それとも批判するだろうか。どういった意見(二次的な意見)を表明すれば私は周囲になじめるだろうか。

 

さて、果たして一次的行為者と二次的行為者、どちらが魅力的だろうか?私は思う。前者こそが、圧倒的に人を惹きつけるのだ。好悪ないまぜになった人々を。

 

表現者を、私は尊敬する。何かしらのものを露にしたことに対する尊敬の念である。内容は問わず、まずもって表現という行為そのものへの敬意である。

 

私は、表現者でありたいと思う。それは受動的ではなく積極的に自分の人生を、命を形作るということであり、それこそが生を受けたこの世界に貢献するということなのではないだろうか。

 

 

seramayoさん。本、楽しみにしています。