受験生の弟が、2年(3年?)連続で第一志望の大学の入試をすっぽかす、という出来事があった。
(もう1年前のことだけど)
彼はその後、併願していた大学に2浪の末入った。
すっぽかそう、と決めたときに彼がなにをかんがえていたのかは想像することしかできないけれど、もし「勝負することを恐れて、逃げた」のであれば、その気持ちはなんとなくわかる気はする。
正しくあらねばならない
両親の教育ゆえか環境ゆえか、われら3姉弟は「こうあらねばならない」「正しくあらねばならない」という一種の強迫観念のようなものが人よりも強い気がする。
たとえば妹は、昔ピアノのレッスンに通っていたときに練習不足だからと連絡もなくレッスンを欠席した。
たとえばわたしは、昔イギリスの高校に留学するための英語の試験を受けることになったとき、「準備不足だ、実力不足だ、ああ無理だ、落ちたくない…」とこわくなって前日にドタキャンした。
まあ非常識と言ってしまえばそれまでなんだけれども、なぜそういう行動をとるに至ってしまったかが肝心だ。
「やるからにはできなければいけない」「正しくあらねばならない」。
なんかほんとこれに追われてた。
レッスンに行くからには先週より上達していなければならない。きちんと練習しておかねばならない。
お金を払って受験するのなら、合格せねばならない。十分に準備せねばならない。
この考え方は他人にも向けられていて、「あの人ブスなのによくあんな格好できるなあ」「全然練習してないくせによくそんな偉そうなこと言えるなあ」「役員に立候補するならまず校則守れよ…」とかそんなことばかり思っていた。
でもこの考え方ってほんとにしんどくて、他人に勝手に課した「こうあらねばならない」は何倍にもなって自分にのしかかってくる。
おしゃれするならかわいくなければならない。
アドバイスするならめちゃくちゃうまくなければならない。
1回引き受けたならば、間違いなく完璧にこなさなければならない。
これって心のメーターの針がプラスに振れているときは強力な着火剤になってくれるんだけれども、いったん針がマイナスに振れてしまうと、ガチガチにしばられて身動きがとれなくなってしまう。
「勝」「負」
わたしは勝負っていう、「勝」と「負」にすっぱりわかれるものがどうにも苦手だ。
夫が「卓球部時代の試合楽しかったでー」と言っているのを聞いて、素直に尊敬してしまった。
まあ小中高大とずっと文化部で勝敗と縁の無い生活をしてきたから、慣れの問題もあるっちゃあるのかもしれない。
いずれにせよ、わたしにとって勝負の「負」はお前はだめなやつだ、劣っている、と突きつけられるに等しくて、「正しくあらねばならない」否、「常に正しくありたい」身にとっては耐えがたい。
耐えられないもの
ずっとずっとずっと入りたくて、念願かなって入団できた京大オケは、入って3年で嫌気がさした。そして逃げるようにビオラに転向、留学した。
これって、今ならわかるけど、「下手な自分」に耐えられなかったんだ。
うまい後輩がたくさん入ってきて、同期たちもどんどんうまくなっていって、自分の指が回るようになるよりも先に耳が良くなってしまって 、弾けば弾くほど、聴けば聴くほど「自分は下手くそだ」という現実に絶望する羽目になった。
1日7時間、8時間、ただただ「もっとうまくなりたい」という思いだけで練習し続けていた1回生のわたしは、すっかり過去の思い出になってしまった。
3回生で経験した2度の定期演奏会は、ほんっとーーーに弾きたくなくて、自主練習もほとんどしないまま、演奏会が終わる日を指折り数えてた。
もう下手な自分と向き合うのは嫌だ、と。
壁
今思えば、あれがいわゆるスランプ、「壁にぶちあたった」というやつだったんだろうね。
「焦らず初心にかえって基礎練しようよ」「短く切って何十回も練習したら少なくとも指は回るようになるよ」と、今の私は振り返っておもうんだけど、まあ、なんというか、プライドが高かったんだなあ…
自分なんてそんな大したもんじゃないだよ~
あの「スランプ」こそががんばり時だったのだろうな。
あそこでひとふんばり、それまで以上に練習していれば、もうひとつ上のレベルに達して卒団できていたんだろうな、としみじみ思う。
これは学生時代に残してきた、数少ない後悔のひとつ。
もしこれからまたなにかに熱中して、そしてその上達の過程でおなじような局面に達したら、今度こそはふんばってがんがん壁にぶつかっていこう、勝負していこう、という小さな決意。