「なぜ人を殺してはいけないのか」
この問いに対する答えは、
「なぜならより多くの人がそう信じていた方が個々人にとって都合がいいから」
だな、といつだか思ったことがあった。
わたしたちは、多くのものを当然のように信じて(ほとんど疑うことも知らず)生きている。
お金、国、会社、宗教、思想………
これらはすべて、多くの人が信じているからこそ成立している。
「虚構」を可能にする言語
人類がここまでの発展を遂げてきた要因はなんなのだろうか?
『サピエンス全史』(河出書房新社)によると、それは「虚構」を語れる言語能力らしい。
私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。(太字引用者、以下同様)
他の生物が到底成しえない、数千万人、数億人から成る一大集団を築けたのも、この虚構の力故だそうだ。
1対1の集合体であるたとえば100名程度のコミュニティとは違い、虚構には包摂し得る規模に限界が無い。虚構の力によって、非常に多数の見知らぬ人同士が協力できるようになった。
多くの人間が信じれば信じるだけ、それは拡大していく。
それは「中国」「アメリカ」といった「国家」かも知れないし、「キリスト教」「イスラム教」といった「宗教」かもしれない。
私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。
この文章を読んだとき、私のうっすら考えていたことがあまりに的確に言い表されていたので驚いた。
すなわち、「人を殺してはいけないのは、多くの人がそう信じていた方が都合がいいから」。
キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか?まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。社会を維持している秩序は、偉大な神々あるは自然の法則によって生み出された客観的実態であると、つねに主張する。
ぱっと思い浮かぶものだと、かの悪名高いナチスがある。
「アーリア人が至高の人種」という秩序を支えるべく、当時の学者たちはこぞって「客観的な」根拠を提示し、一大国家を確立していた。
そこまで過激ではなくでも、というかむしろこうした秩序は現代でもありとあらゆるところに存在している。
たとえば、「平等」。人種差別反対、宗教差別反対、人類はみな平等である。
現代人の多くは、みなそう信じている。
しかしそれと同様に、中世ヨーロッパの人々は階級区分というものを信じていたから、貴族の若者は農民の仕事着など絶対に着なかった。
そして当時の偉いひとたちは、そうした区分にもっともらしい理屈をつけていたのだろう。
結局「客観的な事実」も、「正しい秩序」も存在しない。
それぞれの時代、それぞれの地域に異なる秩序が存在し、その秩序を支える論理が存在する。それだけの話である。
こうした考え方のもと昨今のアメリカに端を発する騒ぎを見てみると、「トランプ反対!」だけではなく、より立体的な感覚でニュースを見聞きできる。
そう、「平等主義者の私たち」も、数多ある秩序の一つに過ぎない。
(もちろん私はこちら側の人間だが)
無知の知
なぜ大航海時代の主人公は明帝国や中東・インド地域の大帝国ではなくヨーロッパの西の果ての国々だったのだろう?
東方の歴史好きの人なら、一度は抱いたことのある疑問だと思う。
なぜならば、そうした国々の人々は「自分たちはもう世界のすべてを知っている」と思っていたからだ。
明の皇帝、すなわち天子は、地上を統べる役割を天から与えられた存在だった。すなわち彼はすでに地上のすべてを把握している。そういうことになっていた。
イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。
当時の領土拡張は辺境地域の延長であり、すでにすべてを知っている(とされる)皇帝が、未知の大陸を求めて船団を派遣することはあり得なかった。
古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。(中略)
第二に、伝統全体が重要でない事柄について無知な場合。
前者は、無知な悩める農民が人間の起源について知りたければ、地元の聖職者がすべて教えてくれた。
後者は、たとえばクモがどうやって巣を張るかを聖職者に尋ねてももちろん答えは得られないが、聖書に書かれていないということはすなわち神が重視していないということであり、それについて頭を悩ます必要は無い。
では、なぜ西ヨーロッパ諸国だけが大航海時代を迎えたのか。
それを可能にしたのは、近代科学の誕生である。
近代科学は、最も重要な疑問に関して集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統だ。
ダーウィンは、自分が「最後の生物学者」で、生命の謎をすべてすっきりと解決したなどとは、けっして主張しなかった。広範な化学研究を何世紀も重ねてきたにも関わらず、生物学者は脳がどのようにして意識を生み出すかを依然として説明できないことを認めている。
未知の大陸が存在する。
西ヨーロッパの一部の人々はその「事実」を受け止め、次々と船団を派遣していった。
そのあとの経緯は、みなさまご存知のとおり。
「想像上のヒエラルキーと差別」
最後に、奴隷貿易とその後の人種差別についての話が非常に興味深かったので書いてみる。
16世紀から18世紀にかけて、何百万人ものアフリカ人がアメリカ大陸に連れていかれ、鉱山やプランテーションで働かされた。
しかし、なぜヨーロッパ人でもなく、アジア人でもなく、アフリカ人が奴隷にされたのだろうか?
第一に、アフリカのほうが近かったので、たとえばヴェトナムからよりもセネガルからのほうが奴隷が安く輸入できた。
第二に、アフリカではすでに奴隷貿易(主に中東向けの奴隷輸出)がよく発達していたのに対して、ヨーロッパでは奴隷は非常に珍しかった。
そしてこれがいちばん重要なのだが、第三に、ヴァージニアやハイチ、ブラジルといった場所にあるアメリカのプランテーションでは、マラリアや黄熱病が蔓延していた。これらはもともとアフリカの病気であり、アフリカ人は幾世代も経るうちに、完全ではないがそれに対する遺伝的免疫を獲得していたが、ヨーロッパ人はまったく無防備で、続々と命を落とした。そのため、プランテーション所有者にとっては、ヨーロッパ人の奴隷や年季奉公人よりもアフリカ人奴隷に投資するほうが賢明だった。
だが、「経済的に好都合だから特定の人種あるいは生まれつきの人々を奴隷にしている」など、公に言えることではなかった。
南北アメリカに移住したヨーロッパ人たちは、経済的に成功しており、敬虔で、公正で、客観的だと見られたがった。
そうして、この身分差別を正当化するために、宗教的神話や科学的神話が無理やり動員されることになったそうだ。
19世紀前半に、奴隷制は非合法化された。
しかし恐ろしいのはこのあとの話で、非合法化されたのちも社会的境遇の違いから大きな格差が残ったままとなり、今度はその格差によって彼らは一層差別されることになった。
「奴隷制はずっと前に廃止され、彼らを縛るものはもうなにも無いのに、まだ貧乏なままじゃないか!」と。
たとえ法的に縛るものがなかったとしても、数世代続いた貧困、そして白人からの圧倒的な差別は、そう簡単に克服できるものではなかった。
そうしたハナからあまりにも不利な「事実」を元に差別の神話が形成され、それが一層の差別につながるという悪循環に陥った。
このような悪循環は、何百年も何千年も続いて、偶然の歴史上の出来事に端を発する想像上のヒエラルキーを永続させうる。不正な差別は時が流れるうちに、改善されるどころか強化することが多い。お金はお金のある人の所に行き、貧困は貧困を招く。教育が教育を呼び、無知は無知を誘う。いったん歴史の犠牲になった人々は、再び犠牲にされやすい。逆に、歴史に優遇された人々は、再び優遇されやすい。
『サピエンス全史』
2017年にこの本に出会えてよかった。
まず第一の感想はこれだった。
歴史の渦中にいる人間にはその潮流はさっぱりわからないのが常だけれども、少なくとも2016年は非常に大きな転換点のひとつになったんじゃなかろうか、という気がしている。
そんな時代に生きる身として、できるだけ立体的な、壁の無い視点を持ちたいなと思う。
本書は、間違いなくそうした視点を与えてくれる体験だった。
全然うまく書けなくて、実際の本はこの1000倍は面白いので、ぜひお読みください。
2017年に読みたい本、でした。