朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

何者でもない自分

 

苗字が変わってから、10ヶ月が経ちました。

 

24年間自分の名札として認識してきた名前とおさらばしたのは、去年の3月のこと。

苗字だけで33画もあった旧姓に取って替わったのは、たった7画の小学1年生で書けるようになっちゃう姓でした。

 

10か月も経って、職場やら学校やらで毎日新姓で呼ばれていると、さすがに馴染んできました。

 

以前後輩だか誰かに訊かれた質問。

 

「苗字が変わるって、どんな感覚ですか?」

 

今ならちゃんとそれに答えられそうなので、ちょっと書いてみようと思います。

 

 

 

 

苗字が変わるって、どんな感覚?

 

一言でいうならば、「旧姓と新姓の狭間で、誰でもない存在になる感覚」かな。

この1年はまさに旧姓から新姓への移行期

 

婚姻届けを出して、戸籍を変更して、銀行口座名義を変更して、といったあたりでじわじわ「新姓」という現実に向き合い始めるのが妥当だと思うのですが、私の場合、不思議と入籍1ヶ月前にはすでに旧姓の私は過去の存在になっていました。

 

もう少し先の方で待っているかと思っていたのに、知らないうちに私の中に溶け込んでいてしまって、自分でも「え?いつの間に?」とわからなかったほど、迅速に、自然に、旧姓の私ではなくなってしまっていました。

 

 

 

 

「何者でもない」ことの楽しさ

 

そんな風に、知らぬ間に旧姓の私とお別れしてから今にいたるまで、旧姓ではない、かといって新姓にもなりきれていない自分との間の感覚を楽しんでいます。

 

 

旧姓の私は、もうすっかり過去の人間。

 

「ああ、そんな人間がいたんだなあ」という感覚。

 

 

新姓の私は、まだ他人です。

「(新姓)さん」で呼ばれれば返事はしますし、自分で名乗るときも新姓を名乗るわけですが、それは私という存在が社会的にはそういった名前(新姓)と紐づけられているからそう対応しているだけであって、自分の内面から出てきてはいません。まだ。

 

 

とすると、今の私は何者にもなりきれていない。

 

そしてこのフェーズ、めちゃ楽しい。

 

 

なんていうんだろう、「(旧姓+名)」の私はこういうもんだ、というのが24年間で確立されてしまっていたんですよね。

(旧姓)ならこうするだろう、(旧姓)ならこう考えるだろう、果ては(旧姓)ならこうあるべきだ、等々。

 

でもそんな縛りや思い込みは、今となっては過去の人間のもの。もういなくなってしまった人間のものです。

 

 

今の私を生きることの楽しさは、いうなれば捕まえたてのポケモンをLv.2から育てるような楽しさ。

これからどんな技を覚えさせようか、これからどんな能力値を上げていこうか、これからどんなポケモンと戦わせようか。

 

「自分」のことであるはずなのに、どこか「他人」を見守るかのような感覚です。

 

まだまだまっさらな他人。

その他人を好きなように操縦できる立場にあるのだと思うと、けっこう楽しいです。

 

結婚する前は、「名前変わるの面倒だなあ…」なんて思ったりもしてたんですが、ところがどっこい、これってめちゃくちゃ貴重な感覚を味わわせてもらってるんじゃない?

 

 

さー、今年はこのポケモンをどう育てようかなあ。。