朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

はじめてのことば

親戚に1歳とちょっとの男の子がいる。何度か一緒に遊んだことがあって、本当にかわいい。見慣れない人間や久しぶりの人間に出会ったときに、じーっと、ただただじーっとその顔を見つめているのが面白かった。「あ、今『スキャン』してるんだな」と思った。

この年(24)になってから小さい子と遊ぶのは、自分が子供だった時に遊ぶのと全く違う。自分が10歳だかそんなだったら自分とこの子は同じ人間だって思える。自分とこの子は同じ線上にあるんだなって思える。でもハタチもとっくに過ぎて、一応「大人」になりつつある身からすれば、赤ちゃんって全く別の生き物みたいだ。

その『スキャン』しているのを眺めながら思った。「この子は今まっさらなんだなあ。これから『世界』を獲得していくんだなあ。この子の未来は無限に開けているんだなあ。」こっそり泣いた。うるうるした。赤ちゃんってすごいなって。

 

この会話能力ゼロの状態から5年後にはそこそこの会話ができるようになってるのだから、人間ってほんとによくできている。まずは周囲の会話を真似することから始まるのだろう。となると、周囲の人間の(文字通り、)「言葉遣い」が非常に重要になってくる。

先日ヤンキー一家の5歳くらいの息子が「今度ばかりは容赦せーへんで!」となかなか難しいことを言っていた。その子のしゃべるほかの言葉と比べていきなりレベルが上がっていたことから、「たぶんいつも親が言っている言葉とシチュエーションをコピーしてそのまま言っているんだろうな」と思った。

そう、「言葉とシチュエーションのコピー」なのである。こういうときにこういうことを言ったら、この人は喜ぶ。悲しむ。おびえる。笑顔になる。

「今度ばかりは容赦せーへんで!」という時のお母さんは怖い。ということは、自分を怖いと思わせたい時に言えばいいのだろう。

目の前をびゅーんって走っていく大きな四角をみるとお母さんは「ぶーぶー」「くるま」と言う。それを指してお母さんの真似をしたら褒められた。ということはこの大きな四角は「ぶーぶー」「くるま」なのだろう。

 

そしてそのうち、言葉だけで新たな言葉を獲得できるようになっていく。それは対話においてであり、また読書においてもである。

こうしてこれまで言葉を獲得してきたのだと思うと、ちょっと自分で自分にびっくりする。24年も生きればブログくらいは書けるようになるのだな笑 改めて、知的水準って環境に左右されるのだなと思う。アメーバのように周囲の言語を吸収していくのだと考えると、その吸収される周囲こそがそのアメーバを形成するのだな。それは言語に限らず、考え方も、価値観も。

 

「印象」という言葉に初めて出会った瞬間を覚えている。「ドラえもん のび太ドラビアンナイト」という映画に出てきた。あったはずのお城が消えてしまっている。でも記憶の中にはある。そんな感じの場面で「印象」という単語が使われていた。「いんしょう………???」となったのをよく覚えている。その言葉の意味がはっきりしたのは、その後本で「印象」という単語に触れた時だったと思う。

あとは、「男子/女子」との出会いも覚えている。小学校1年生の時の体育の授業で、じゃあ先に「だんし」が走りましょう、そしてそのあと「じょし」ね、と言われた。わからない単語はすっ飛ばして聞いていたので、「とりあえず走ればいいんでしょ」と理解し、その後「だんし」と一緒に走りだしたら思いっきり周囲に笑われた思い出。みんな知ってるのに私は知らない、ということが一層恥ずかしさを加速させた。

 

そうやって母語を獲得していくことを考えると、改めて外国語を学ぶ際は全く違う過程をたどるのだろうな、ということがよくわかる。特に基礎の部分。ただ、一定ラインを超えると、母語も外国語も同じである。日本語だって、本や経験があってこそわかる単語は膨大だ。

外国語を勉強するというのは、改めて母語に向き合う過程にほかならない。母語が豊かであってこそ、外国語での表現の幅も広がるのだなと思う。古典にしか出てこないような言葉から流行語に至るまで、言語は一生学び、取り入れ続けるものである。

今後、英語に留まらず中国語、フランス語、ロシア語と進出していく腹積もりではあるが、私の世界の基幹言語は日本語であり続けるのだろう。その核を元にアメーバ展開していく先に、何が見えるのか。今から楽しみでたまらない。