朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

セミはセミの死骸を見てもなんとも思わないのに、人間はなぜ人間の死体を不気味だと感じるの?

 

スコーンの疑問、第2弾。

初回はこちらでした。

ayacai115.hatenablog.com

 

みーんみんみんみんみん

じいじいじいじいじいじい

しゃわしゃわしゃわしゃわ

夏~~~毎日これでもかというくらいセミの大合唱に揉まれながら通勤しています。樹を見ては「あ!クマゼミ3匹!」「苔すごいなあ」、空を見ては「雲がきれいだなあ」、池を見ては「亀がひなたぼっこしてるなあ」「水嵩増えたなあ」、足元を見ては「おー、セミの幼虫が出てきた穴がいっぱいだ~」「今日もいっぱい死んでるなあ」「アリの巣だ~」……楽しい!!

夏って楽しい。

楽しいんだけど、生き物がたーくさんわちゃわちゃしてる分、死もたくさん目にします。そこで今日の疑問。

 

セミはセミの死骸を見てもなんとも思わないのに、人間はなぜ人間の死体を不気味だと感じるの?

1回目の疑問が科学系だったのと比べると、意識というか捉え方というか、こういうテーマは問題設定が難しいね…

セミだってもしかしたら同種の死体が傍にあったらひええって思ってるのかもしれない。見た目には出ないだけで。人間の死体だって単に見慣れてないだけでいざ目にすると意外と冷静になれるのかもしれない。まあでもそんなこと言い出したらきりがないから、疑問はこれで。

 

小学生のときだった。いとこと祖父母の家の近所でセミをとりまくった。十数匹は捕まえた。捕ったセミは全部虫捕り網の中に入れたまま、一晩が経った。翌朝網に駆け寄ると、中にいたセミはほとんど死んでしまっていた。でも数匹生き残っていた。普通に、元気。ぶーん。ばたばた。逃がしてあげた。

その時に思った。あんなに仲間の死体に囲まれてたら私だったら怯えて挙動がおかしくなりそうなもんだけど、セミは全然そんなことなかったなあ、いつも通りだったなあ。

 

今も毎日不思議に思っている。セミに限らない。むしろアリの方がわかりやすいか。甘い液体。群がるアリ。次々と犠牲になっていく先発隊。彼らの死骸を踏み台にしながら淡々と餌を持ち帰っていく後発隊。君たちに、意志は無いのかい?心は、無いのかい?いや、心ってなんだろう。

寿命を全うして地面でひっくり返っているセミ。カラスにかじられて無残な姿になったセミ。自転車の犠牲になって本人も知らぬ間に死んでしまったセミ。彼らはたぶん、そうして死んでいった仲間に近づいてもなんとも思わない。「自分と同じ姿をしたものが死んでいる。」まずそれを認識できるのかすらわからない。

 

緑のトンネル。幅6mほどの通勤路。そこを体長1cm足らずのダンゴムシが横断しようとしているのをよく見る。いっそ毎日見る。そのたびに思う。「これ、生きるか死ぬかなんて完全に運やん。」死神の鎌となるのは、人の足か、自転車のタイヤか。彼らは特に生きたそうにも見えない。正直。だって、すぐ近くで自分より大きい生き物がぺしゃんこになってるんだよ?怖いと思わないの?

今日のテーマを決めたあとに、改めてこの知恵袋の記事を読んでみる。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

「生存」「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

 

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

 

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する

個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

※太字筆者

 このコメントは読むたびに違ったしみこみ方をしてきて本当に興味深い。

それはさておき、人間の種としての戦略が「社会性」なのだとすると、死体への恐怖もいくらかはそこからきている?社会性というとまず「共感」が思い浮かぶのだけれど、死への共感……えーっと、自分も死んだら…とかって思うのかしら…

死んだ時点で人「だったモノ」になってしまうという感覚はあるのかもしれない。抜けた髪の毛が汚らわしく感じられるのと同様……

 

なんか全然まとまんなかったけど、ねむいのでおしまい!笑