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朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

他人が私を形成する

 

結婚して、名字が変わって、2ヵ月半が過ぎた。

旧姓で呼ばれることはぱったりなくなって、職場でも学校でも新しい姓で呼ばれる。そうして毎日を過ごしていて思うのだが、「私」ってかなりあやふやな存在なんだなということ。

24年間ずっとそうだったはずの名字は、たった2ヵ月半周囲から別の名前で呼ばれ続けただけで私のものではなくなってしまった。自分でもちょっとびっくりしている。旧姓がかなり珍しくてインパクトのある名前で、新姓がめちゃくちゃ普通な名前なのでなおさら。

いや、私はK(旧姓)なんです!Kって呼んでください!といったところで、私は社会的にはもうO(新姓)になってしまったわけで、もうKの私は存在し得ない。

 

私から見た私。旦那から見た私。家族から見た私。友人から見た私。職場の人から見た私。先生から見た私。私の記憶の中の過去の私。友人の記憶の中の過去の私。家族の記憶の中の過去の私。

これらは全部異なっていて、でもすべてが私であるって考えるとなんだかよくわからなくなる。たとえばおばあちゃんに「スコーンちゃん、ちっさいころはやんちゃでねえ…」と言われた場合、自分の中からそれに対応する記憶が引き出されるのではなく、おばあちゃんの記憶の中の「私」が情報として新たにインストールされるような感覚を抱く。

誰も私の正しい(ただただ事実に則した)過去の情報なんて持っていなくて、各々が各々のフィルターを通して保存したデータがその時々の都合に応じてひっぱりだされてくるだけなので、記憶ほど適当なものもない。それは私が私自身を顧みる時もそうである。

 

でも「私」は、そうしてインストールされた情報で形成される。「ふむふむ、過去の私はそうだったのだな」「ならば今の私はこうふるまうのだろうな。」もしくは「いやしかし今の私は違うからこうふるまうぞ。」

過去の情報よりも大きいのは、現在の情報である。私が何か行動を起こす。すると他者から何かしらの反応が得られる。(ここで、他者から見た「私」が形成される。)それを積み重ねると、こうした行動をとればこうした反応が得られるという脳内マニュアルのようなものができあがる。では私は他者からどのような反応を得たいか。それを脳内マニュアルに照らし合わせ、適切な行動をとる。(こうして、私は他者から見られたい「私」を形成する。)

 

私がなにかをしたい、なにかになりたいと言ったとき、それは果たして「他者からこうした反応を得たい」からなのか、「ただ私はこう在りたい」からなのか、そこの区別はなかなかできない。たとえば私は通訳になりたい。一瞬考えただけではこれは後者に分類されるかに見える。

しかし「通訳になりたい」に包含されるのは、「大好きな英語で役に立ちたい」「フリーランスで職人的に生きていきたい」「異文化間の懸け橋になりたい」であり、これは他者からそう見られたいということなのか、私はこう在りたいということなのか。境界はあいまいである。

そもそも世界に私一人しかいなければ「私」としての認識はなりたたない。世界に2人以上の人間がいることによって「私」が成立しているのならば、そもそも「ただ私はこう在りたい」には少なからず「他者からこうした反応を得たい」が内包されている。

 

誰もが多かれ少なかれその両方を抱きながら生きていて、よって重要なのはその比率ではないのだろうか。とは言ってみたものの、そもそも「ただ私はこう在りたい」ってのがどういうことなのか、よくわからなくなってきた……