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朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

起きて5分で書いた文章

 

ひさびさに5時に起きた。最近身体がだるくて起きれね~と思っていたが、えいっと顔を洗ってしまえばなんてことはない。結局は気合の問題である。

一時期はすごく上手に習慣付けができていて、毎朝5時に起きて6時から英語スカイプ、なんてこともやっていた。今から考えるとひっくりかえりそうな話である。現在は基本的には毎日22時寝6時起きという我ながらなんとも健康的な生活を送っている。

ブログはやっぱ毎日ちゃんと書きたいと思って5時に起きてみたものの正直書くことが思いつかず、こうして思いつくままずらずら書き連ねるに至っている。

 

 

人間とロボット

 

5月からの勤務先の関係で、近頃ロボットなどの技術の未来について興味を持ち始めた。そこで買ってみたのが「シンギュラリティは近い」という本である。なかなか若干カルト的な調子で未来予測が展開されるらしいと聞き、ドキドキしながらページをめくる。

 

彼によると、今世紀の前半には人間の作り出した知能が人間自身を超越してしまうそうだ。技術は直線的にではなく指数関数的に発展するため、ある点を突破すると垂直に近いスピードで技術発展は展開していくとのことだ。

そういうわけで、「人間はまだまだしばらくコンピュータより上だ」という大方の予測(期待)を裏切って、21世紀前半にはそうした偉業が達成されてしまう、というのが筆者の見解である。

 

そんなとんでもない知能が誕生してしまったら「垂直」発展が始まるという話も頷ける。賢いものがもっと賢いものを発明して、もっと賢いものがもっともっと賢いものを発明して…という循環が超速で繰り返されるということなのだろう。

 

一方でアンドロイドも発展を遂げて「パーソナルアンドロイド」の時代がやってくるだろうという予測も聞く。そうなると人間が直面するのは「人間とはだれか」「私とは何か」といった疑問である。

なるほど私は今手を動かしてこのブログを書いている。これは私の手とされているものである。私が動かそうと思えば誤差なく動いてくれる。しかしこれは果たして私なのだろうか。私は私の全身を一生目にすることができない。鏡?写真?しかしそれは私が普段目にできないものを「写しているとされている」ものであり、肉眼で実感を伴って「見る」ことはできない。意志通り動かせるのが「私」の条件であるのならば、それは失った四肢などを補う機械もそうであり、もっと言えば遠隔操作する腕、果ては遠隔操作に自分と瓜二つの容貌まで加わったアンドロイドだって「私」のはずだ。

こうして技術的な側面だけではなく精神的な側面でも人間の在り方が揺らぐ一方、人間を決定的に特徴づけるものがあると筆者は言う。

そんな世界で、間違いなく人間的だと言えるものが残っているかと問われれば、あるひとつの性質は変わらずにあり続ける、と答えよう。それは、人間という種は、生まれながらにして、物理的および精神的な力が及ぶ範囲を、その時々の限界を超えて広げようとするものだ、という性質だ。 

 

こうした人間の本来の性質に効率的な生産・消費を目指す資本主義が加わり、ここ200年ほどの急激な発展が遂げられてきたんだろうな、と思った。

 

この話を聞いて思い出されたのが先日読んだピーターの法則という本だ。階層社会において、すべての人は各々の無能(になる)レベルまで昇進を続け、無能レベルに到達したらそこにとどまり続ける。だから世の中は無能にあふれているのだ、という面白い本だった。

そしてこの法則は生物の発展にもあてはまるとしているのである。恐竜、ナウマンゾウその他もろもろ過去絶滅した生物は、進化を続けた結果環境に適応できないレベルに到達してしまい、滅ぶに至った。それは人間も例外ではない、という薄ら寒い閉じ方をするのである。この本は。

 

全ての技術はまずは大勢の悲観論者によって出迎えられるのが世の常である。「シンギュラリティに近い」に述べられている未来が本当に到来するのであれば、それは人類始まって以来の大きな地殻変動である。人間はどのように対応していくのか、それは実際にその時代がやってくるまでは誰にも想像がつかないだろう。

 

 

シンギュラリティは近い [エッセンス版]―人類が生命を超越するとき

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ピーターの法則 創造的無能のすすめ

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