朝からスコーン

考えたこと。やってみたこと。やってみたいこと。

かっこいいプレゼン!

昨日は思いがけず予定のない有休日となってしまいまして、せっかくなのでSansan Innovation Projectというイベントに行ってきました。

 

jp.sansan.com

 

法人向けフォーラムだったんですが、しれっと職場(大学)の名前を書いて入れました。わーい。

 

こういうイベントに行くのははじめて。

スーツの人たちに囲まれながら、業界(?)をリードする方たちの講演を聞いてきました!

 

 

話の内容はもちろんなんですが、初めて目にする対大勢の本格的なプレゼン。

これが本当におもしろかった!

 

 

そして聴衆のみなさん、遠慮なくスライドをスマホで撮ってました笑 

むっちゃカシャカシャいってた笑笑

 

 

特にトリの石川善樹さんのプレゼンがほんっとーーによくて、びっくりしました。

もう、むちゃくちゃ楽しそうなんですよね。

 

「これ、めちゃくちゃ面白い話なんですけどね、」って自己紹介もそっちのけで、いきなり本題に引き込む。

 

声が大きくて張りがあって会場を抱擁する力があったので、聴衆も遠慮なく笑ったり写真を撮ったり(=音を立てられる)できて、すごく一体感のあるプレゼンだった。

 

引き込み方も半端じゃなくて、「でね、これが面白いんですけどね…」って絶妙な間を持たせることで、早く次を話してほしい!って聴衆を巻き込んじゃう。

 

何よりこの研究が好きで好きでたまらない!!っていう思いがもうあふれかえっていて、信じられないくらいあっという間で楽しすぎた40分間でした。

 

 

あんまりこんなこと思わないんですが、「わあ、こんな人になりたい…!」って思える方でした。

あんなプレゼンできるようになったらどんだけ楽しいんだろう。

 

最後にしっかり自著の宣伝もされていたので(そこでまたうまいこと笑いを取ってた、すごい)、まずは本を拝読してみます。

 

 

いやー、とても楽しい時間でした。

 

 

 

 

2017年頭に読んでよかった本。

 

「なぜ人を殺してはいけないのか」

 

この問いに対する答えは、

 

「なぜならより多くの人がそう信じていた方が個々人にとって都合がいいから」

 

だな、といつだか思ったことがあった。

 

 

 

 

 

わたしたちは、多くのものを当然のように信じて(ほとんど疑うことも知らず)生きている。

 

お金、国、会社、宗教、思想………

 

これらはすべて、多くの人が信じているからこそ成立している。

 

 

 

 

「虚構」を可能にする言語

 

人類がここまでの発展を遂げてきた要因はなんなのだろうか?

 

『サピエンス全史』(河出書房新社)によると、それは「虚構」を語れる言語能力らしい。

 

私たちの言語が持つ真に比類ない特徴は、人間やライオンについての情報を伝達する能力ではない。むしろそれは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、私たちの知るかぎりではサピエンスだけだ。(太字引用者、以下同様)

 

他の生物が到底成しえない、数千万人、数億人から成る一大集団を築けたのも、この虚構の力故だそうだ。

 

1対1の集合体であるたとえば100名程度のコミュニティとは違い、虚構には包摂し得る規模に限界が無い。虚構の力によって、非常に多数の見知らぬ人同士が協力できるようになった。

 

多くの人間が信じれば信じるだけ、それは拡大していく。

それは「中国」「アメリカ」といった「国家」かも知れないし、「キリスト教」「イスラム教」といった「宗教」かもしれない。

 

 

私たちが特定の秩序を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだ。「想像上の秩序」は邪悪な陰謀や無用の幻想ではない。むしろ、多数の人間が効果的に協力するための、唯一の方法なのだ。

 

この文章を読んだとき、私のうっすら考えていたことがあまりに的確に言い表されていたので驚いた。

 

すなわち、「人を殺してはいけないのは、多くの人がそう信じていた方が都合がいいから」

 

キリスト教や民主主義、資本主義といった想像上の秩序の存在を人々に信じさせるにはどうしたらいいのか?まず、その秩序が想像上のものだとは、けっして認めてはならない。社会を維持している秩序は、偉大な神々あるは自然の法則によって生み出された客観的実態であると、つねに主張する。

 

ぱっと思い浮かぶものだと、かの悪名高いナチスがある。

「アーリア人が至高の人種」という秩序を支えるべく、当時の学者たちはこぞって「客観的な」根拠を提示し、一大国家を確立していた。

 

そこまで過激ではなくでも、というかむしろこうした秩序は現代でもありとあらゆるところに存在している。

 

たとえば、「平等」。人種差別反対、宗教差別反対、人類はみな平等である。

現代人の多くは、みなそう信じている。

 

しかしそれと同様に、中世ヨーロッパの人々は階級区分というものを信じていたから、貴族の若者は農民の仕事着など絶対に着なかった。

そして当時の偉いひとたちは、そうした区分にもっともらしい理屈をつけていたのだろう。

 

 

 

結局「客観的な事実」も、「正しい秩序」も存在しない。

それぞれの時代、それぞれの地域に異なる秩序が存在し、その秩序を支える論理が存在する。それだけの話である。

 

 

こうした考え方のもと昨今のアメリカに端を発する騒ぎを見てみると、「トランプ反対!」だけではなく、より立体的な感覚でニュースを見聞きできる。

 

そう、「平等主義者の私たち」も、数多ある秩序の一つに過ぎない。

(もちろん私はこちら側の人間だが)

 

 

 

 

 

無知の知

 

なぜ大航海時代の主人公は明帝国や中東・インド地域の大帝国ではなくヨーロッパの西の果ての国々だったのだろう?

 

東方の歴史好きの人なら、一度は抱いたことのある疑問だと思う。

 

 

なぜならば、そうした国々の人々は「自分たちはもう世界のすべてを知っている」と思っていたからだ。

 

明の皇帝、すなわち天子は、地上を統べる役割を天から与えられた存在だった。すなわち彼はすでに地上のすべてを把握している。そういうことになっていた。

 

イスラム教やキリスト教仏教儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。 

 

当時の領土拡張は辺境地域の延長であり、すでにすべてを知っている(とされる)皇帝が、未知の大陸を求めて船団を派遣することはあり得なかった。

 

古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。(中略)

第二に、伝統全体が重要でない事柄について無知な場合。

前者は、無知な悩める農民が人間の起源について知りたければ、地元の聖職者がすべて教えてくれた。

 

後者は、たとえばクモがどうやって巣を張るかを聖職者に尋ねてももちろん答えは得られないが、聖書に書かれていないということはすなわち神が重視していないということであり、それについて頭を悩ます必要は無い。

 

 

 

 

では、なぜ西ヨーロッパ諸国だけが大航海時代を迎えたのか。

 

 

それを可能にしたのは、近代科学の誕生である。

 

近代科学は、最も重要な疑問に関して集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統だ。

ダーウィンは、自分が「最後の生物学者」で、生命の謎をすべてすっきりと解決したなどとは、けっして主張しなかった。広範な化学研究を何世紀も重ねてきたにも関わらず、生物学者は脳がどのようにして意識を生み出すかを依然として説明できないことを認めている。 

 

 未知の大陸が存在する。

 

西ヨーロッパの一部の人々はその「事実」を受け止め、次々と船団を派遣していった。

 

 

そのあとの経緯は、みなさまご存知のとおり。

 

 

 

 

 

「想像上のヒエラルキーと差別」

 

最後に、奴隷貿易とその後の人種差別についての話が非常に興味深かったので書いてみる。

 

16世紀から18世紀にかけて、何百万人ものアフリカ人がアメリカ大陸に連れていかれ、鉱山やプランテーションで働かされた。

 

しかし、なぜヨーロッパ人でもなく、アジア人でもなく、アフリカ人が奴隷にされたのだろうか?

 

第一に、アフリカのほうが近かったので、たとえばヴェトナムからよりもセネガルからのほうが奴隷が安く輸入できた。

第二に、アフリカではすでに奴隷貿易(主に中東向けの奴隷輸出)がよく発達していたのに対して、ヨーロッパでは奴隷は非常に珍しかった。

そしてこれがいちばん重要なのだが、第三に、ヴァージニアやハイチ、ブラジルといった場所にあるアメリカのプランテーションでは、マラリアや黄熱病が蔓延していた。これらはもともとアフリカの病気であり、アフリカ人は幾世代も経るうちに、完全ではないがそれに対する遺伝的免疫を獲得していたが、ヨーロッパ人はまったく無防備で、続々と命を落とした。そのため、プランテーション所有者にとっては、ヨーロッパ人の奴隷や年季奉公人よりもアフリカ人奴隷に投資するほうが賢明だった。

 

だが、「経済的に好都合だから特定の人種あるいは生まれつきの人々を奴隷にしている」など、公に言えることではなかった。

南北アメリカに移住したヨーロッパ人たちは、経済的に成功しており、敬虔で、公正で、客観的だと見られたがった。

そうして、この身分差別を正当化するために、宗教的神話や科学的神話が無理やり動員されることになったそうだ。 

 

 

19世紀前半に、奴隷制は非合法化された。

 

しかし恐ろしいのはこのあとの話で、非合法化されたのちも社会的境遇の違いから大きな格差が残ったままとなり、今度はその格差によって彼らは一層差別されることになった。

奴隷制はずっと前に廃止され、彼らを縛るものはもうなにも無いのに、まだ貧乏なままじゃないか!」と。

 

たとえ法的に縛るものがなかったとしても、数世代続いた貧困、そして白人からの圧倒的な差別は、そう簡単に克服できるものではなかった。

 

そうしたハナからあまりにも不利な「事実」を元に差別の神話が形成され、それが一層の差別につながるという悪循環に陥った。

 

 

このような悪循環は、何百年も何千年も続いて、偶然の歴史上の出来事に端を発する想像上のヒエラルキーを永続させうる。不正な差別は時が流れるうちに、改善されるどころか強化することが多い。お金はお金のある人の所に行き、貧困は貧困を招く。教育が教育を呼び、無知は無知を誘う。いったん歴史の犠牲になった人々は、再び犠牲にされやすい。逆に、歴史に優遇された人々は、再び優遇されやすい。

 

 

 

 

『サピエンス全史』

 

2017年にこの本に出会えてよかった。

まず第一の感想はこれだった。

 

歴史の渦中にいる人間にはその潮流はさっぱりわからないのが常だけれども、少なくとも2016年は非常に大きな転換点のひとつになったんじゃなかろうか、という気がしている。

 

そんな時代に生きる身として、できるだけ立体的な、壁の無い視点を持ちたいなと思う。

 

本書は、間違いなくそうした視点を与えてくれる体験だった。

 

全然うまく書けなくて、実際の本はこの1000倍は面白いので、ぜひお読みください。

 

2017年に読みたい本、でした。

 

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

  

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

 

 

成長の楽しみ

 

毎週土曜は通訳学校。

 

前半2時間、後半2時間、計4時間。

 

前半と後半は別々の先生が受け持つんだけど、今日は二人ともに同じことを言われてしまった。

 

それに関してふと思ったことがあるので書いてみる。

 

 

 

全然英語が喋れなくて悔しくて仕方なかったあのころ

 

きれいな日本語にできてますけど、もう少しスムーズに訳せるといいですね。

今のだと少し間が気になります。」

 

 

それが今日2回も受けてしまったフィードバック。

 

文法、言い回し、整合性。

全部めちゃくちゃ気をつけて、気をつけすぎてスムーズにアウトプットできない。

 

 

なんかこんなこと、昔もあったなあ、と思ったらそうだ、英語が全然喋れなかったときの感覚だ。

 

 

今でこそ簡単なことなら困難無く話せるけど、昔は「えっと…主語は I で…過去形単数だから was で…進行形にしたいから ing で…それで目的語は…あ、前置詞は何がいいんだっけ………」とか毎回全力で脳内検索をかけながらしゃべってた。

 

そんだけ必死なのに "you likes" とか "teached"とか飛び出てくるし、数か月イギリスにいても一向に喋れるようにならないし、本当に毎日もどかしかった。すらーっとしゃべれないのが悔しくて仕方なかった。

 

 

でもイギリス留学を終えてヨーロッパを旅していて、ふと気づくと「あれ?私英語喋れるやん???」ってなってた。

 

ある日いきなり、ではなく、気づけばできるようになってた、っちゅー感覚。

 

 

 

 

成長してきた、という実感

 

帰国後にも外国人旅行客としゃべったり、スカイプ英会話で鍛えたりして相当伸びた。

 

この1年、通訳学校に通うことでもずいぶん伸びた。

 

なんかこうして、「1年前の自分が見たら羨ましくなるだろうな」と思える自分でいられることは、けっこう嬉しい。

 

1年後の私も、今の私が羨ましく思えるような人間であってほしいなと思う。

 

 

 

 

受験勉強、バイオリン、英語。

 

私はこの3つで、「がんばって、その分成長できた」という成功体験を得てきた。

 

ちょっと集中してがんばったからって、来週からいきなり上達してるとかそんな都合の良いことは全くない。

 

でもなにか「あ、これ前より上手になってる」って思えたときは、それは必ず過去の自分の頑張りによるもの。過去の自分が費やした時間と工夫と気力によるもの。

 

この感覚が、なんていうのかな、本当に幸せ。

 

 

必ず報われるなんてことはない。

でも、なにか今この時に積み重ねなきゃ、より良い未来はやって来ない。

 

 

「あ、今は投資のフェーズだな」とか、

「あ、ちょっと成長したな」とか、

そういった感覚の引き出しが自分の中にあるのがありがたい。

 

これこそが私の中の最大の財産かも。

 

 

 

これからもいろんなことができるようになりたいな~

 

 

SNSにおけるレビュー、そして「個」の時代

 

「これからは『個』の時代になっていく」

 

「『モノ』ではなく『経験・体験』を買う時代が来る」

 

 

ここ数年、そういった考えをちらほら見聞きします。

 

そして私もそう思います。

 

私の場合、SNSにおける相互レビューを経験することでそう考えるようになりました。

 

 

具体例を以下に出します。

 

 

 

 

Couchsurfing(無料版Airbnb)での相互レビュー

 

 

Couchsurfing(カウチサーフィン)という無料版AirbnbのようなSNSサービスがあり、私は京都での学生時代、このSNSを利用して京都に来た外国人旅行客の方を下宿に泊めていました。

 

確かやっていたのは5か月ほど。その間に計13人を泊め、プラス3人とごはんを食べにいきました。

 

国籍は、中国、韓国、香港、ドイツ、フランス、イギリス、ポーランド、イタリア、トルコ。

 

泊めたのは全員女性。男性とはごはんにのみ行きました。

(ここでイスラム教徒の方をとんかつ屋さんに連れていくという大失敗を犯したことは秘密…)

 

 

端的に言えば、出会ったことも無い人をいきなり自宅に泊めてあげるサービスです。

 

そして99%外国人(私の場合比較的慣れているので大きな問題はありませんが)。

 

 

「よくそんなことできるね?」

 

「怖くないの?危なくない??」

 

 

これが率直な感想だと思います。

日本はじりじり規制を弱めたりしていますが、それでもまだまだ抵抗が強い印象。

 

newsphere.jp

この記事から引用。

ゲストの平均利用日数は3.8泊(ブルームバーグ)。したがって、規制の「最低6泊」は大きな打撃となる。

 日本での問題は宿泊日数だけではない。不特定多数の外国人が近隣に出入りすることを嫌う住民によって、所有物件の貸し出しを禁止するマンションも出てきている。

 

 

じゃあ、ですね。

 

私はなぜ(一応)「安心」してこのSNSを利用することができたのか。

 

それは「レビュー」というシステムがあるからです。

 

f:id:ayacai115:20170113205935j:plain

 

 

 これは私(Aya)の家に泊まってくれた人たちが実際に書いてくれたレビューです。

 

 だれかの家に泊めてもらう、もしくは泊めてあげると、その後「良かった!」「ダメだった」と互いにレビューを書くことができます。

 

つまり、泊まる側も泊める側も悪いことはできない、というわけ。

 

新しい人から「泊めてください!」というリクエストが来たら、まずその人のレビューを見て、「大丈夫そうだな」と思ったら泊めてあげる。そして良かったら「良かった!」とレビューを書いてまたその人のポジティブなレビューが増える。

 

そんな仕組みです。

 

上の記事でもレビューのことが言及されてます。

 

実際、個人間での部屋の貸し借りというのには双方に不安感が伴う。ただし、Airbnbではホストとゲストが互いにレビューし合うシステムなので、評価の悪いゲストを泊める必要はない。ホストの物件の破損や盗難などの被害をサポートするシステムもある。 

 ドイツで二世帯住宅の一部を貸し出すアメリカ人のシェーナ・ローラーさんは「台所を散らかしたままとか、暖房をつけているのに窓を開け放したまま去ったゲストはいましたが、ひどい被害にはあったことはありません。Airbnbを通してゲストを迎えることで先払いが保証されているので、個人で貸し出すより安心感があります」と言う。

 

Couchsurfingは無料なのでお金のやりとりは関係ありませんが、やはりSNS内に履歴や評価が残っているという安心感はあります。

 

(ただ、女性ゲストが男性ホストに襲われたとか、男性ゲストが女性ホストを襲った、なんて話は何度か聞いたので、泊めたのは女性だけ。さすがに最低限のことは気をつけなきゃですが…)

 

 

 こういったシステムの元、Couchsurfingというサービスは成り立っているわけです。

 

 

じゃあ、なぜゲスト/ホストはこのサービスを利用するのでしょうか?

 

ゲストにしてみれば無料なのは良いですが他人の家に泊まるという不安があります。

ホストにしてみれば、お金にはならない上に、スペースを分け与えたり相手をするという手間や不安があります。

 

ではなぜこのサービスを利用するのか?

 

言い換えれば、このサービスを通して、ゲスト/ホストはどんな価値を交換しているのでしょうか?

 

 

 

「体験」という価値の交換

 

ゲストとホストが交換しているもの、それは「体験」という価値です。

 

ゲストは、旅先の人々のありのままの日常を垣間見て、会話を通じて異文化を知り、地元人に観光案内してもらうという「体験」ができる。

 

ホストは、異国の人に出会い、会話を通して異文化を知り、自分の文化を見つめなおし、地元を案内するという「体験」ができる。

 

 

これこそが、CouchsurfingというSNSが提供しているサービスであり、わざわざ見知らぬ人の世話になろうと思わせるだけの価値があるものなのです。

 

 

そして、安全性は「レビュー」というシステムによって担保されている。

 

 

 

 

ネット上での「個」の形成

 

アメリカ発で注目を浴びるUberのようなサービスもそうですよね。

 

「レビュー」というシステムは「悪いことをしないでおこう」と思わせる防止策になると同時に、「より良いサービスを提供しよう」という動機づけにもなる。

 

 

以前Google創業者の本を読んだときに、「将来はネットは実名制になり、個々人の記録が生涯にわたってストックされていく」みたいなことが書かれていました。

 

上述のような「良いレビュー」「悪いレビュー」が個人の名のもとストックされていく時代がくるのかもしれません。

 

そうすると、「悪いレビュー」ばかりの人間は、自然とネット上において淘汰されていく。良いサービスを提供し、「良いレビュー」をたくさん得た人間が「個人」としての存在感を獲得する。そうなるのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

「価値観を買う」時代

 

ネット上の「個人」と絡めて思うのは、そうした自分の好きな「個人」の価値観を買う・体験するという経済活動が今浸透しつつあるんじゃないかな、ということ。

 

 

わかりやすい例でいえばTwitter

 

例えば私はこの方をフォローしています。

twitter.com

元新聞記者で、今は作家・ジャーナリスト。

毎日自分のコメントつきでニュースをシェアしていて、本も書かれたりしています。

 

私は佐々木さんの考え方が好きで、シェアされたニュースを読んだり、ご自身の著書や、紹介されている書籍を読んだりしています。

 

そうしていてふと思ったのが、「私はこの人の『価値観』を買っているのではないか」ということ。

 

 

 

 

また、以前英語記事で紹介したこの方も良い例ですね。

 

twitter.com

LINEの役員をされていますが、日頃の発信によってただの役員以上の影響力を持ってらっしゃる印象です。

 

たまに「この本めっちゃいい!経営者は絶対読むべき。」みたいなコメントつきで本を紹介されていることがあるのですが、そうすると実際の店舗(紀伊國屋書店ジュンク堂など)で途端にその本が飛ぶように売れるそうです。

 

もうそこらへんの広告以上の威力ではないのかと。

 

そしてこの「個人」が強いのは、マスに対して広告を打つよりも圧倒的に高い精度でより興味を持ちそうな集団にリーチできるという点です。 

 

 

また、インスタでは1フォロワー=〇〇円、みたいな具合にフォロワーに値段がつくそうで、なので数百万フォロワーがいる人気インスタ人は、企業スポンサーつきの投稿をすると数千万円が入ったりするとか。

 

これはまさにフォロワーがその人の「価値観を買っている」ということなのだと思います。

 

 

一昔前でも好きな著者の本を買いあさるなんてことはあったと思いますが、今はTwitterInstagramなど、著名人が「個人」として発信する場が整備されています。

 

こうしてかつての「著名人」が文字通り直接やりとりができるレベルにまで近づいたことで、以前では著作だけにとどまっていたものが、「著名人」の興味の対象や近しい考え方をする人たちにまでフォロワーの関心が及ぶようになったのでしょう。

 

そしてもっと言えば、かつては「著名人」ではなかった「普通のひとたち」が、インターネットという場で自分の価値観や考え、生き方を表現することによって、そこに共感する人々を惹きつけて小さなコミュニティを形成する。そんなことまで可能になってきています。

 

 

 

 

 

 私自身、高級車や高級な宝石などに全く魅力を感じない典型的な「ミレニアル世代」です。

 

そんな私が何にお金と時間を使いたいかといえば、価値観に共感できる人の考え方に触れること、自分のまだ知らない世界を「体験」すること、「良いな」と思う場の一部になることに対して、かなあという気がします。

 

 

 

こうした「ミレニアル世代」そしてこれからの消費活動、もとい価値の交換の在り方については、たくさんの本が出ています。

 

 

もちろん本から得られるものもたくさんありますが、こうして自らを今の社会構成員の一サンプルとして見つめなおしてみるのも結構面白いものですね。

 

 

 

 

こう分析してみたのは良いとして、さてじゃあ自分はどうする?というのが肝心なわけです笑

 

 

「今の自分に何ができる?」って考えると、いやそれはもう本当になんにもできないのですが、まあなにもできないなりに、少なくともアーリーアダプター、あわよくばイノベーターでありたいな、と思うスコーンでありました。

 

 

 

2020年のわたしへ

 

 

ちかごろ、たった1年の間にあまりに多くのことが起こるもんだから、たとえば2年前の日本が、世界が、わたしがどうだったかなんてもうほとんど思い出せません。

 

 

ああ、ちょうど1週間前くらいに卒論提出して、3月は卒業式をさぼって石垣島行って、4月からは大都会東京に進出していろいろあって…とかそんな具合かな。

 

 

なんかそういう事実は思い出せるんですが、当時私が何を感じていたか、考えていたかとか、当時の社会の空気やテクノロジーはどんなもんだったかとか、そういったことは残念ながら思い出せません。

 

 

 

そこで今日は、題して「2020年のわたしへ」

 

今、わたしが感じている空気、目にしている世界を書き留めておこうと思います。

 

ちかごろは情勢の変化やら技術の進歩やらが日々本当に激しくて、今日のあたりまえは1年前には想像もできなかったもの、なんてのがすっかり日常になってしまいました。

 

そんなときだからこそ、こうして今をちょちょっと書き留めておくのは、将来ちょっとした楽しみになるんじゃないかな、なんて思って書いてみます。

 

 

 

iPhone は 7 まで出てます

 

2016年にiPhone7が発売されました。

 

日本のガラケーにあった、おサイフケータイ的機能が追加され、注目を浴びました。Suica代わりに使える、らしい?

 

iPhoneシリーズって、デザインにこだわり、カメラにこだわり、UIUXにこだわり、はーいみんなアプリ自由に作って使いまくってちょうだい!っていうイメージだったので、「おサイフケータイ」みたいな細かい(?)機能がついたのはちょっと驚きでした。

 

「ティム・クック(CEO)はやっぱりジョブズとは違う、敵わない」といったがっかり系の感想をちらほら見かけましたが、さて実際はどうなんでしょうね。

 

2020年にはiPhone10くらい?

 

もしかしたらスマホに代わるデバイスが普及して、「スマホ」は死語になってるとか…?

 

ちなみにスコーンはいまiPhone6を使ってますよっ

 

 

 

 

「働き方改革元年」2016年

 

2015年12月に亡くなった電通新入社員の方の報道に始まり(確か夏か秋ごろ)、そこから一気に「働き方」ブームが巻き起こりました。

 

安倍首相が2016年初頭に「働き方改革」を強調していたこともあってかこの出来事が脚光を浴び、その後電通やらなんやらに政府の捜査が入ったり、電通社長辞任になったりとかなんとか。

 

www.sankei.com

 

「働き方改革」「生産性」「ワークライフバランス」「長時間労働、ここらへんがよく見聞きされる言葉でした。

 

本なんかも色々出たりして。

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

 

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの

 

 

 

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論

 

 

 

 

「VR元年」2016年

 

正直この話題はさっぱりなのですが、とりあえずPlaystation VRなるものが発売されたそうです。

 

高いところまじで怖い、バイオハザード怖い、女の子リアル、ただ頭と視界の動きが連動していないとすぐ酔っちゃう、みたいなことを研究室(職場)の先生が言ってました。

 

www.jp.playstation.com

 

 

 

ポケモンGO

 

7月にポケモンGOが発売され、一時は大変な騒ぎになりました。

大学キャンパスもみんなポケGO、近所もみんなポケGO…

 

飽きっぽい私は1週間で飽きましたが、初めてのAR(拡張現実)体験は本当に面白かった。

 

ゲームが人間を家から引っ張り出せるなんて!

 

リアルの店舗とゲーム等のサービスの関係性について、すごくすごく大きな可能性を感じられる出来事でした。

 

 

 

 

難民問題、Brexit、トランプ勝利

 

「2016年の世界の10大ニュースは?」と尋ねたら、どの報道機関もこの3つは必ず入れてくるはずです。

 

今紛争や戦争で危機的な国、といえばシリアが真っ先に出てきます。あとはなんか大変そうっていうのがイエメン、スーダン南スーダン、コロンビア、リビア、らへん?

 

この1年で急激に治安悪化した印象があるのがトルコ。7月にあったクーデターでは300人弱が亡くなったそうですが、その後も粛清や弾圧などがあり、未遂ではあったものの長く尾を引きそうな出来事でした。

 

余談ですが、このクーデターの現場を私は生中継で見ていました。それも報道機関ではなく、一民間人の方がPeriscopeというwebサービスでライブストリーミングしていたものです。

 

www.periscope.tv

 

 

夜のボスポラス海峡をまたぐ大きな橋は通行止めのため車でいっぱいになり、人々が車から出てきて大声を出したり不安そうにしたりしていました。

 

また別の場所では、不安そうな人々が、情報が錯綜する(しているように見える)中、どこかへ避難しようとしていました。

 

歴史に残り得るクーデターの中の一市民の姿を、わたしは今現在進行形で目にしている……この出来事は、形容しがたいのですが、間違いなく深い感動をわたしの中に残しました。

 

プーケットの新婚旅行中にわたし自身このperiscopeというサービスを使ってライブストリーミングをしてみたのですが、全然知らない人に見てもらえるんですよね。

 

世界地図からたどってきて好きな地域のストリーミングを見れるので、わたしは日本語で放送しているのにロシア語のコメント(読めない)がついたりしてかなり面白かったです。

 

やっぱりプーケットっぽい光景(○ビーチ・プール、×室内・食べ物)で動きがあるほうがユーザーがつきやすいなあといった感触。

 

 

 

閑話休題。トルコはその他にも何十人と亡くなる事件がいくつかあった印象です。

 

クルド人勢力?PKK?政府系(イスラム系)?とか色んな勢力が入り混じってややこしいことになっているそう。

 

 

難民問題に関しては、トルコ→ギリシャ→ヨーロッパのルートが閉じられたため、アフリカ北部を迂回してリビアからイタリアへ渡るルートが活発化しました。

 

地図を見るとよくわかりますが、リビア→イタリアはすなわち地中海縦断です。

そんなところを定員オーバーのゴムボートで渡ろうとするものだから、たくさんの犠牲者が出ました。

 

www.bbc.com

 

この地中海縦断で、2016年だけで4200人以上が亡くなっているそうです(11月時点)。

 

中東からはるばるリビアまで来た人も多いことを考えると、道程すべてを含めるとどれだけの人が亡くなっているのか。考えるだに恐ろしいです、、、

 

 

その一方で東欧は難民を拒否する勢力が勢いを強め、西欧にもその流れはじわじわ波及しつつある、のかな。。 

 

そうしていろいろありつつ、6月にイギリスはEU離脱派が勝利。

 

大部分の伝統的メディアの予想を裏切っての勝利でした。

 

BBCなどのニュースサイトがこぞって集計結果をグラフなどで表示する中、"leave"に針が傾いたまま動かなくなったときは、にわかには現実が信じられませんでした。

 

あー、これ、将来歴史の教科書に太字で載るんだろうな……そんなことをぼんやり思いながら、その後の一連のニュースを眺めていました。

 

 と思っていたら11月にはまさかのまさかのトランプ氏当選!!

これもほんとーにびっくりしました。

 

選挙後に「なぜトランプが勝ったのか」という分析記事が山ほど出てきて、わたしを含むたくさんの人々がなんとか心の軟着陸を成功させようと試行錯誤していたのが印象的でした。

 

2020年はトランプ政権折り返しの年……さてはてそのころの世界はどうなっているのやら。

 

 

 

 

 

「知」「教養」ブーム

 

これは2014,5年から感じていることですが、本屋でやたらと「知の○○」「仕事に効く教養」とかそういった類の本を見かけます。

 

いや、そういった概念が注目を浴びるのは大変素晴らしいことだと思うのですが、そもそもなんでそういった本が増えてるんでしょうね?

 

ひとつには世界情勢の複雑化があるんじゃないか、とわたしは考えます。

 

や、わたしはまだ25歳ぽっちで冷戦やらベトナム戦争やらの時代を知らないのでコメントしづらくはあるのですが、今の世界情勢は確実に役者が増えた感があります。

 

G7+ロシアは当然として、中韓、東南アジア、インド、中東、アフリカ、南米…

それぞれの地域のそれぞれの国が果たす役割が大きくなってきた感があります。かつては「先進国」「後進国(古い言い方)」と分けられていたものが、かつての「後進国」たちが経済成長によってぐんぐん存在感を強めてきている。

 

そうした時代を生き抜こうと思ったら、知らなきゃいけないことはそれこそ無限大。あー高校時代に世界史ちゃんとやっておけばよかった、化学ちゃんとやっておけばよかった、そんな大人の心の声に答えてくれるのが、「知」「教養」といった文言のついた、わかりやすくかつ包括的な書籍なのかなーという気がします。

 

もちろん、「これからは英語じゃー」の大合唱の原因(?)である「グローバル化」もそうだと思うのですが。

 

 

あとは、「一生一社に勤める」といった慣習がいよいよ過去のものであることが浸透してきたのもあるかもしれません。

 

これまではひたすら社内のあれこれを考えておけばよかったのが、転職を見据えて市場価値の高い人材になる必要が出てきた。そんなこともあっての、「教養本」ブームなのかな。

 

 

 

おわり

 

とまあ、いろいろ書いてきましたが、「人工知能」「AI」「コンピューターが職を奪う!?」なんてのもめちゃホットだった2016年でした。

 

そろそろ書く気力がなくなってきたので、このへんで。。。

 

 

 2020年のわたしへ、2016年はこんな年だったんですよ~

今はどうですか?

 

何よりも、自分そして周囲の大切な人たちが変わらず健康でいてくれることを願ってやみません。

 

 

 

2020年のあなたが後悔していないよう、わたしがんばるから!

 

よろしくね~~~

 

 

何者でもない自分

 

苗字が変わってから、10ヶ月が経ちました。

 

24年間自分の名札として認識してきた名前とおさらばしたのは、去年の3月のこと。

苗字だけで33画もあった旧姓に取って替わったのは、たった7画の小学1年生で書けるようになっちゃう姓でした。

 

10か月も経って、職場やら学校やらで毎日新姓で呼ばれていると、さすがに馴染んできました。

 

以前後輩だか誰かに訊かれた質問。

 

「苗字が変わるって、どんな感覚ですか?」

 

今ならちゃんとそれに答えられそうなので、ちょっと書いてみようと思います。

 

 

 

 

苗字が変わるって、どんな感覚?

 

一言でいうならば、「旧姓と新姓の狭間で、誰でもない存在になる感覚」かな。

この1年はまさに旧姓から新姓への移行期

 

婚姻届けを出して、戸籍を変更して、銀行口座名義を変更して、といったあたりでじわじわ「新姓」という現実に向き合い始めるのが妥当だと思うのですが、私の場合、不思議と入籍1ヶ月前にはすでに旧姓の私は過去の存在になっていました。

 

もう少し先の方で待っているかと思っていたのに、知らないうちに私の中に溶け込んでいてしまって、自分でも「え?いつの間に?」とわからなかったほど、迅速に、自然に、旧姓の私ではなくなってしまっていました。

 

 

 

 

「何者でもない」ことの楽しさ

 

そんな風に、知らぬ間に旧姓の私とお別れしてから今にいたるまで、旧姓ではない、かといって新姓にもなりきれていない自分との間の感覚を楽しんでいます。

 

 

旧姓の私は、もうすっかり過去の人間。

 

「ああ、そんな人間がいたんだなあ」という感覚。

 

 

新姓の私は、まだ他人です。

「(新姓)さん」で呼ばれれば返事はしますし、自分で名乗るときも新姓を名乗るわけですが、それは私という存在が社会的にはそういった名前(新姓)と紐づけられているからそう対応しているだけであって、自分の内面から出てきてはいません。まだ。

 

 

とすると、今の私は何者にもなりきれていない。

 

そしてこのフェーズ、めちゃ楽しい。

 

 

なんていうんだろう、「(旧姓+名)」の私はこういうもんだ、というのが24年間で確立されてしまっていたんですよね。

(旧姓)ならこうするだろう、(旧姓)ならこう考えるだろう、果ては(旧姓)ならこうあるべきだ、等々。

 

でもそんな縛りや思い込みは、今となっては過去の人間のもの。もういなくなってしまった人間のものです。

 

 

今の私を生きることの楽しさは、いうなれば捕まえたてのポケモンをLv.2から育てるような楽しさ。

これからどんな技を覚えさせようか、これからどんな能力値を上げていこうか、これからどんなポケモンと戦わせようか。

 

「自分」のことであるはずなのに、どこか「他人」を見守るかのような感覚です。

 

まだまだまっさらな他人。

その他人を好きなように操縦できる立場にあるのだと思うと、けっこう楽しいです。

 

結婚する前は、「名前変わるの面倒だなあ…」なんて思ったりもしてたんですが、ところがどっこい、これってめちゃくちゃ貴重な感覚を味わわせてもらってるんじゃない?

 

 

さー、今年はこのポケモンをどう育てようかなあ。。

 

 

 

 

結局英語なんて、必要に駆られないと勉強しないよね

 

 

私はある大学の教授の秘書として働いている。

そしてその教授はどちらかといえばカタカナ英語。

文法やつづりももたまに変だったりする。

 

 

でも海外講演を堂々とこなすし、海外メディアのインタビューにも英語で応じる。

そして国際的に高く評価されている。

 

カタカナ英語だけど。

 

 

 

 

 

LINEの執行役員に、田端信太郎さんという人がいる。

 

その方がこんなnote記事を上げていた。

 

note.mu

以下note記事より引用。(太字引用者)

まずは、初めにこの動画を見てほしい。

 

こちらは、私が2015年の11月初旬にアイルランドはダブリンで行われたネット業界最大級のカンファレンスであるWEB SUMMIT 2015にて各国から集まった1000人近い観衆を前に披露した「マーケティングプラットフォームとしてのLINE」を売り込む英語プレゼンである。

 

上記の動画に収録されたもの以外でも、欧州最大級のソーシャルメディアについてのカンファレンスであったENGAGE(2015年はプラハで開催)においても、同じく1000名近い観衆の前で話をさせてもらったりもした。見込み顧客やパートナー向けに、一般には非公開でなされるセミナー的なものも、2015年においては、月に平均で2〜3回はあったように思うので、おそらく、東京ベースで働く純ドメで留学経験ナシという、セコい(笑)前置きを付けさせてもらうならば、私は、おそらく日本のネット業界ビジネスマンの中で、昨今最も英語で、多くの人間の前でプレゼンしてきた部類に入るのでないか、と自負している。

 

このプレゼン自体も、正直、全く完璧ではない。自己採点するならば、58点くらいだ。まだまだ多いに向上の余地だらけである。しかし、あえて、他人様に向けて、このような文章を書く決心がついた理由が一つある。WEB SUMMITもENGAGEも、聴衆は1日1000$近くする入場料を払ってくるようなイベントだ。当然、オーディエンスも真剣なわけだ。その中で、いちおう、ブーイングが起こったりしないし、Twitterのコメント等もポジティブなものが幾らかは付いたりはする、つまりは、ある程度、意味のあることを話せて、伝わってはいる、という最低限のレベルはクリアできたのではないだろうか、という自己判定をかろうじて持てたので、このような文章を書いている。

 

実際に、noteから田端さんのプレゼン動画を見てみた。

 

うん、カタカナ英語だ。

 

でも言いたいことははっきり伝わってくるし、この人の話を聴きたいな、とも思わされる。

 

 

教授と田端さんの英語を見聞きして思ったことを書いてみる。

 

 

 

 

 

「伝えたいことあってこそ」の英語

 

私の職場の教授と田端さんには共通点がある。

 

それは、「既に専門とする分野がある」という点だ。

 

教授であれば、学会発表に必要だから、論文執筆に必要だから、海外の研究者と議論するのに必要だから英語を習得しているのであって、「これからの時代英語が大事っぽいから英語を勉強しよう。」「話せるようになったぞ、さて、どこで使おう」という順序ではない。

 

必要に駆られての、言い換えれば、「伝えたいことあってこそ」の英語である。

 

 

 

 

LINEの田端さんにしてもおそらくそうだろう。

今年NY証券取引所に上場し、これからますます海外展開を推し進めるであろうLINE(そもそも韓国系の企業だが)。役員としてだけではなく、一個人としても英語の必要性を感じていたのではないだろうか。

 

このグラフからもわかる通り、ネット上における英語使用人口は実に日本語の約8倍。LINEのようなIT系企業ならば、一層英語が必要となる機会は多いのだろう。

 

http://www.garbagenews.com/img16/gn-20161114-08.gif

インターネットで使われている言語の普及率をグラフ化してみる(2016年)(最新) - ガベージニュースより引用

 

こういう人たちは、英語学習の動機、学びたい内容が非常にはっきりしている。

 

 

まず日本語の時点で自分の専門分野があり、自分の主義主張があり、所属する環境(学会や業界)があり、語るもの、語る場がある。

 

すでに文脈や前提知識を共有している中においての英語。

そこでは発音が良いとか文法が美しいとかそんなことは関係ない。

 

「何を伝えたいのか」。これこそが重要だ。

 

そして日本語で「伝えたいもの」をすでに持っている人は、あとはそれを英語に翻訳する術を学べばいいだけ。

 

方向性が非常に明確。

 

目的を持っているから、上達のスピードはかなり速いのだろうな、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

挫折する人が多いからこその書籍の多さ

 

私は「趣味は本屋巡りです」といえるほどの本屋好きなのだが、英語の教材はどこに行っても必ず1棚分はある。

大規模な書店であれば、十数メートルがぜーーんぶ英語。

 

ネット上や駅前でも語学学習サービスがあふれかえっている。

 

で、思うのだが、これは裏を返せばそれだけ挫折する人が多いということなのかな、と。

 

本を購入した人がその後満足のいくレベルまで上達していれば、初歩的な教材がこれほど書店にあふれかえることは無いだろう。

英会話教室に通った人がその後教室が不要になるレベルに達していれば、電車で英会話教室の広告が踊り狂うことも無いだろう。

 

 

「これからは英語だ!」「英語やんなきゃやばいぞ!」と煽られ煽られ、手を出してみるものの、今すぐに自分の生き死にに関わることは無いものにそうそう注力することはできないだろう。

 

 

現代日本の英語産業は、この「たぶんやんなきゃやばいけど、今すぐやらなくても食ってはいける」という絶妙なポジションを存分に生かしているんじゃないかと思う。

 

 

私も相当喰い物にされてきた方だが、気になりつつお金使いつつでも上達しないって人はいっそ必要になるそのときまで無関心を貫いたほうがいいのかも…笑